59 仁徳天皇陵を楽しむ

戦国堺の街
大仙公園に上がる気球(おおさか堺バルーン)100メートル上空から古墳群を楽しめる

堺の街の西側に頭を北に向けて寝そべった猫を背中から見たような(個人的感想ですが)深緑の小山が仁徳天皇陵(大仙陵古墳・百舌鳥耳原中陵)です。被葬者が仁徳天皇に特定できないとの理由から呼称は流動的なのですが、コラムでは堺で呼ばれている「御陵」を使いたいと思います。

仁徳天皇陵拝所

戦国期、堺の街だった所の標高は2~5メートルしかありません。街から御陵まで西に3キロ弱、陵の最も高い所は標高50メートル近くあるので(墳丘の高さは35.8メートル)、高い建物がなかった当時はかなり見上げるような感じに堺人の目には映ったことでしょう。「御陵」と尊称で呼ばれているのはそんな印象も大きかったのかも知れません。しかし、きちんと天皇陵として人の出入りを禁じ、拝所を設けたのは尊王思想が盛り上がった幕末以降です。街の近くにある「小山」ですので、禁止されなければちょっと登りたくなるのが人情というもの。江戸時代には、堺の街の人々が重箱や酒を持って御陵へのハイキングが盛んだったようです。一般庶民だけでなく、堺奉行所の役人たちは、毎年うららかな春に休みをとり、家族・親戚を引き連れて前方部のいただきに小屋をたててパーティを行っていたとの記録もあります。周りの木々も伐採して街や港の見晴らしを楽しんでいたのでしょうか。もちろん当時も濠がありましたから、渡るための舟もあり舟賃もとっていました。

では戦国期はどうだったのでしょう?江戸時代のようなのどかな記録は残されていませんが、和泉国や摂津国の守護だった畠山氏や細川氏は街や港や街道を見渡せる所に見張り所くらいは置いていたことでしょう。その証拠に御陵のすぐ西側には、守護所の跡といわれる大仙遺跡が見つかっています。(戦国期のかなり前からあったようです)また、小高く濠もめぐらされ守りやすい地形を利用して、城を造ろうと考えた武将もいました。応永の乱(1399年)を引き起こし、堺の街を焼け野原にしてしまい、自らも戦死した大内義弘(参照31)は、堺を「材木を集め、数百人の番匠を以て、種々の工を尽くして、勢楼四十八、矢櫓一千七百、東西南北各十六町、魚鱗・鶴翼の陣を張りける(堺記)」と籠城のための要塞とし、御陵にも出城として兵を置いたようで、堺記には「守主山(もずやま)に杉備中がありける」と記されています。実際「もずやま(万代山)」という古墳は御陵の東側1キロにありますが、兵を置けるような広さはないので(後円部径25メートル)、堺記の「守主山」は御陵と推定されています。また江戸前期に書かれた堺鑑という地誌には「秀吉公度々此陵ニテ狩シ」と豊臣秀吉が御陵で鷹狩りでもしていたかのような記述があります。

現在のような立ち入り禁止の状況でなかった御陵は平和時には行楽や柴刈り・わらび取りの小山として、世が乱れた際には軍事的にも利用されてきました。昨年から御陵のある大仙公園ではおおさか堺バルーンという白い気球から御陵を見る観光施設ができました。単に拝むだけではなく、御陵で楽しむのが平和時の堺の流儀なのかもしれません。

 

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