60 三好一族と堺

堺をめぐる人々
三好長慶画像 京都大学総合博物館蔵

織田信長以前の「天下人」と言われることもある三好長慶(参照6)の生まれは現在の地名で言えば徳島県三好市です。徳島市から吉野川をかなりさかのぼった三好市の芝生(しばう)城で生まれたと言われています。高校野球で有名になった池田高校も同じ三好市、芝生城址から17㌔ほど西になります。

Google マップより

地形図を見ると中央構造線と言われる大断層に沿って流れる吉野川が削り取った狭い「河原」のような場所が三好一族の本拠地です。長慶の曽祖父の代から阿波国守護の細川氏に従い海を渡り、16世紀初めから畿内に進出していきます。曽祖父も父親も畿内の権力闘争の末自害に追い込まれるのですが、長慶はかぞえ年12歳でまた阿波の国の奥地から畿内に出ていき、父親を自害に追い込んだ細川晴元の下で力を蓄えた上で、その晴元を破り(江口の戦い)、また将軍の足利義輝を京都から追放し、3人の弟たちと協力して、畿内と淡路・讃岐・阿波に勢力を広げるのです。

徳島県三好市三野町にある芝生城址

それほど米も取れそうにない山間部を本拠地とした三好氏、なぜ畿内まで勢力を伸ばすことができたのか私は以前から不思議に思っていました。芝生城址に立ちこの疑問はより強くなりました。長慶の曽祖父や父親は、この芝生城とはるか海の向こうの畿内とを行ったり来たりしていたのです。どれだけの兵を連れていったのか、それにかかる経費はどうしたのか? 色々改めて調べてみるとこの付近の侍は、「阿波の山岳武士」と呼ばれた強兵だったこと、芝生は讃岐の国とつながる阿讃越えの要衝で経済活動もそれなりに盛んだったこと、また川を挟んで南北の山地に繁る木々が材木として吉野川を通して畿内に運ばれていたこともわかってきました。畿内の材木の集積地だった堺とも商売を通して関係を密にしていったのかも知れません

三好氏の堺の拠点と言われる海船政所跡 堺の街の北辺にあった

南海本線の七道駅のすぐ近くに「海船政所跡」という碑があります。三好氏の軍事拠点でなかったかと考えられています。江戸時代に書かれた地誌によると、館の中央に高楼を建てて四方を監視し、有事には鐘と太鼓を打ち鳴らして一族郎党に知らせたと書かれています。阿波の山奥から剽悍な山岳武士を載せた船がすぐ近くの海岸に着き、目の前の館にぞろぞろ入っていく。館には、屈強な男たちがが酒を用意して同郷の者たちを待っている。そんな男くさい三好氏のベースキャンプのイメージが私には浮かんできます。ここにたむろした阿波の山岳武士たちが三好氏の覇権を支えていたとしたら私の戦国堺のイメージにまた新しい色を付けることになります。

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