7世紀推古天皇によって難波と飛鳥を結ぶ道として敷設されたという日本最古の官道、それは堺と奈良葛城市を結んでいる竹内街道と重なります。今回は、日本最古の国道、竹内街道の堺部分にスポットを当てたいと思います。

葛城市竹内街道パンフレットより 堺から葛城市まで約26㌔

竹内街道と西高野街道の分岐点 仁徳天皇陵の北側にある
竹内街道は、堺の大小路から始まり、仁徳天皇陵の手前まで以前触れた西高野街道(参照15)と重なり、世界遺産百舌鳥・古市古墳群の間をぬうように西へ伸びています。
竹内街道とよばれるようになったのは江戸時代からで、古代は丹比道(たじひみち)と呼ばれていました。戦国期何とよばれていたかわかりませんが、「海の堺・陸の今井」と並び称された商都して名高い今井(参照30)に通じる道ですので、堺の者は今井街道とでも呼んでいたのかもしれません。

金岡小学校校門横の塀にあるタイル壁画
竹内街道は西高野街道と分かれ、中環(府道2号線)の南側を西に、長曾根・金岡の住宅地を抜けていきます。この付近は、戦国期今井宗久が鉄砲生産のための「工業団地」を造ったところで古くは「河内(丹南)鋳物師」(参照39)が住みついていました。ここでの金属製品も一部は竹内街道で運ばれたのでしょう。

金岡神社の横を通る竹内街道 神社には楠の木が大きく枝を広げている
街道は金岡神社の南側を通り、再び中環(府道2号線)と交わり、大泉緑地という大きな公園の南側を通って松原市に続いていきます。飛鳥の頃は金岡神社の付近で難波の宮に続く難波大道との分岐点になっていました。
奈良盆地から見ると、太陽は春分と秋分の日三輪山から登り、二上山の向こうに沈むそうです。竹内街道とそれに続く横大道はその軌道に沿って東西をまっすぐにつないだ「太陽の道」ともいわれています。
戦国期、街道には、それぞれの地域の権力者(武家だけでなく寺社なども)が関所を設け通行料を徴収していました。竹内街道の関所の数はわかりませんが、15世紀半ばの記録には、淀川河口から京までに380の関所があったと記されています。それぞれの関所で通行料を払っていたら運ばれる商品はどれだけ高額になったことでしょう。当時の商人の苦労がしのばれます。それぞれの地域の権力が合従連衡を繰り返しながら時に戦になった戦国期、特に畿内はこの傾向が強かったようです。堺の街としての自治独立も経済力・防衛力をもって畿内の地域事情の中で築かれていったものなのでしょう。
各地にあった関所を廃止し、流通に革命を起こしたのが信長の大きな仕事の一つといわれています。流通革命によって絶対権力者と結びついた堺は莫大な利益をあげることになりますが、一方街の自治独立は統一権力に飲み込まれ著しく制限されていくことになります。天下統一とは、こうしたいくつもの「小権力」を均して舗装道路を走らせることだったようです。


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