「サピエンス全史」という世界的なベストセラーになった書籍の中で筆者はこう述べています。「貨幣は人間が生み出した信頼制度のうち、ほぼどんな文化の間の溝をも埋め、宗教や性別、人種、年齢、性的指向に基づいて差別するこ
とのない唯一のものだ」
先日ふと思い立って大阪天満にある造幣局博物館に行ってきました。館内には、造幣局で作られた明治以降の貨幣だけでなく、石の貨幣から、世界各国の金・銀・銅貨など歴史的にも貴重な物が多数展示されていて、秀吉が作らせた大判の輝きには目を奪われました。(入場料無料です)

左 石見銀山産の銀 切って使用した。右 天正菱大判 造幣局博物館
16世紀の堺の街を以前「港街・工業都市・自衛力を持った商業都市・経済力を背景にした文化都市」(参照50)と紹介したことがありましたが、もう一つ付け加えなければならないことに思いいたりました。それは金融センターとしての役割です。京都の東寺に備中の新見荘から送られた文書が残されていて、年貢の代わりに割符(わっぷ)を送るので、堺の備中屋で換金してほしいとの書かれているそうです。1467年(応仁元年)当時遠く離れた荘園主に年貢米を送ることは労力的にも、また安全面を考えても大変なことでした。こうした際に使われたのが現在の約束手形のような

年貢と割符の流れ
働きをする割符(書面)です。荘園近くの割符屋が発行した割符を荘園の荘官が東寺に送り、東寺の者が堺の備中屋彦五郎という商人に持ち込んでお金に換えているのです。当然なことですが、備中屋が東寺に支払った金は、後で地元の割符屋と決算することになります。東寺だけではなく、大徳寺や東大寺といった遠方に荘園をもっていた寺社にも堺の商人を受け取りとしたこうした為替文書が残されています。堺の商人は、各地の荘園や市場にでかけ、そこの商人宅を定宿としていたのでしょう。商人宿は年貢銭の送付を依頼されたら堺の商人にあてて為替を組むようになっていったのです。堺に店を構え、日ごろの取引が信頼を生み、こうした金融取引を可能にしたのです。こうした取引は年貢銭だけでなく、例えば安芸の小早川家の文書には、京旅行の金銭を国元から堺宛ての割符で送ったことが記録されているそうです。堺商人への信頼が日本の経済活動をより活発にしていったのです。

コメント