63 黄金の日々の街並み

戦国堺の街
住𠮷祭礼図屏風 右隻から 堺市博物館蔵

上 1568年堺の復元模型 大阪歴史博物館蔵
下 堺街並み模型 堺市博物館蔵

左の写真、上は信長が初めて上洛した頃の堺の街の模型です。(参照2)新たな情報でもあったのかあわてて門に駆け込もうとしている人物も作られています。下は、以前にも紹介した(参照17)「住吉祭礼図屏風」(先頭の写真)を参考に制作されたとのことです。描かれたのは、大坂夏の陣で堺の街全体が焼けた後といわれていますが、華やかな街の様子からは再建されて間のない街というより最盛期の頃を懐かしんで描かれたように感じます。焼ける直前とすると、信長の上洛から50年近くの年月がたっている想定になります。上下を屋根で比較すると違いが歴然です。上は板屋根で風で飛ばされないように石が置かれています。板屋根を葺いている職人も見えます。下は、石置板屋根もありますが、杮葺き(こけらぶき)、瓦葺きの屋根が混在しています。よりお金のかかる屋根が増えています。豊臣秀吉が治めた時代により多くの富が堺に集まり、街並みを変えていったように思われます。

唐物屋(からものや)の20分の1模型 堺市博物館蔵

では、南蛮の舶来品を置いた唐物屋の構造を見てみましょう。杮葺きの二階建ての造りです。通り沿いには、見せ棚を置き、壺等を並べています。暖簾がかかった入口を入ると土間が奥まで続き、床が平行して作られていてその奥に商品が並べられています。二階は店の者の寝室にでも使うようです。模型は20分の1の大きさで造られています。当時堺ではこうした店が多く軒を並べ、堺の住人だけでなく、全国各地からのお上りさんがやってきてその前を人々が行き交っていたことでしょう。

最後に少し長くなりますが、堺の豪商の屋敷をのぞいてみましょう。豊臣の時代より前になりますが、熱心なキリスト教徒であった日比屋の屋敷の中を観察した記録を紹介したいと思います。

さて私はディオゴ(日比屋了慶のクリスチャンネーム)の居間の側面から導かれました。そこにはちょうど一人だけが具合よく入れるくらいの大きさの小さい戸口があります。そこから私たちは真直ぐな廊下を通り、杉材の階段を昇りましたが、その階段は、まるでそこに人が足を踏み入れるのは初めてのことかと思われるほどの印象を与え、あまりにも完璧な造作で、私はそれを筆で言い尽くし得ません。ついで私たちは中庭に出、廊下を通り、私たちが食事をする部屋に入りました。(中略)部屋の片隅には彼らの習わしによって一種の戸棚があり、すぐ傍には周囲が1ヴァラ(1.1m)の黒い粘土でできた炉がありました。それは真黒の粘土製であるのに、あたかも黒玉のようにきわめて澄んだ鏡に似た非常な輝きを帯びているので不思議に思える品でした。その上には感じのいい形の鉄釜が、非常に優雅な三脚(五徳)にかかっていました。灼熱した炭火が置かれている灰は、挽いて美しくふるった卵の殻でできているように思われました。すべては清潔できちんと整っており、言語に絶するものがあります。

        ルイス・フロイス 日本史から

ポルトガルの宮廷に使えたこともあり、大名の城もいくつか訪問している宣教師をして、「言語に絶する」といわしめる屋敷が堺にあったのです。日比屋了慶は、傭兵を300名も雇いていたという豪商でした。屋敷も瓦葺の3階建てだったと言われています。「京の着倒れ、大坂の食い倒れ」に対応した言い回しで、何にお金を使うかを表すのに、堺は「建て倒れ」(参照12)とも言われていましたが、その面目躍如といったところでしょうか。

コメント

  1. Mitchell2429 より:
  2. Jonas1619 より:
  3. Lucas673 より:
  4. Dennis4559 より:
  5. Kason4533 より:
  6. Reid1211 より:
  7. Hayes4727 より:
  8. Hallie3504 より:
  9. Jonas896 より:
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