64 荒木村重と堺

堺をめぐる人々
信長が太刀に刺した饅頭をほおばったという伝説を描いた歌川国芳筆

JR伊丹駅に沿うようにある有岡城址

織田信長の臣下でありながら反旗を翻し、居城の有岡城(伊丹市)に籠城した荒木村重と彼に幽閉された黒田官兵衛との絡みを描いた映画「黒牢城」を見てきました。米沢穂信の原作(ミステリーじたて)をしっかりと消化して見ごたえのある骨太の歴史ドラマに仕上げていました。この映画は6月19日から全国上映スタート、一方私が毎週見ているNHKの大河ドラマ「豊臣兄弟」では、荒木村重の謀反の結末を6月21日に放送しました。微妙にシンクロしていて中々興味深かったのですが、村重が籠城していた有岡城から南に8㌔ほど離れた尼崎城に脱出する理由を「豊臣兄弟」では「命惜しさ」からと卑怯な姿で描いていたのに対して、映画では官兵衛の策略と知りながらも万に一つの可能性にかけた村重の現状打破て描いていました。尼崎城から村重が発した援軍要請の文書の発見等から信長軍に包囲された村重の現状打破のためとする映画の解釈が主流となっています。

有岡城大溝跡 石垣の上には民家が建っている

有岡城は、お城だけでなく、町民の住む町も濠と石垣で囲んだ日本最初の総構えの城だったことで有名です。武士だけでなく町民の命も守る村重の姿勢は、映画「黒牢城」のポイントの一つなのですが、結局籠城中の城から城主が「逃げた」ことにより、城に残された者たちは女子供を含めて大勢の人々が処刑されてしまいます。美人で有名な村重の妻も京の六条河原で首をはねられてしまうのですが、村重は毛利家に保護されその後も生き延びるのです

荒木村重は茶人として晩年を堺でおくっています。これまで何度も引用してきた津田宗及の茶会の記録、天王寺屋会記(参照5)には、1583年正月に荒木道薫として登場してきます。実は、村重はこの17年前から何度かこの会記に登場しているのですが、その時は荒木摂津守(最初は弥介)とされていました。信長への反乱に敗れ、毛利領の尾道に匿われていた村重は、1982年6月に本能寺の変で信長が亡くなると、秀吉に武将としてではなく茶人として仕え、宗及とも茶会に招き、招かれる関係となります。

仕えていた池田勝正を追放し、信長にその実力を見込まれ、摂津一国を任された武将でありながら、その信長に反抗し城も家族も家臣も失しないながら、生きながらえた村重は、自身を卑下したのか、「道糞」と自称しますが、元同僚であった秀吉に「道薫」といい香りの名前に変え仕えます。こうした屈折した生きざまは、作家の興味をひいたのか、映画の原作となった「黒牢城」だけでなく色々な小説で取り上げられてきました。茶人としては、千利休の弟子として「利休七哲」の一人と称えられ、秀吉に仕えて3年後堺で亡くなます。現在墓はありませんが、堺の南宗寺に葬られたと言われています。

 

コメント

  1. Emily3210 より:
  2. Evan3076 より:
タイトルとURLをコピーしました