天下人といわれる信長(参照10・26)・秀吉(参照53・54・55)、三好長慶(参照6・60)と堺のつながりをこのブログで紹介してきたので、徳川家康に関しても触れておきたいと思います。
家康が堺に来た日が明確に記録されているのは、天正10年(1582年)5月29日のこと、武田勝頼を滅ぼした後、「駿河・遠江拝領の御礼」(信長公記)のため安土城を訪問しその後京都・堺に遊覧の足を伸ばしたと言われています。堺では妙国寺(参照12)に宿泊しました。家康は重臣たちや武田家から寝返った穴山梅雪ら250名あまりの団体を収容するのは大きなお寺しかなかったのでしょう。翌日(6月1日)家康は、津田宗及の茶会に穴山梅雪、信長の臣下で接待役の長谷川秀一とともに招かれています。宗及は、自慢の掛け軸や花入れ、茶碗でもてなします。非常に満足した家康は宗及の息子に馬を贈っています。(天王寺屋会期 参照5)そして翌日6月2日早朝本能寺の変が勃発します。ここからが家康の三大危機の一つ「神君伊賀越え」になるのですが、家康はどこで本能寺の変を知ったのでしょう?早朝堺をたって飯盛山(四条畷市)付近で本能寺の変を知ったという説と堺で聞いたという説があります。信長に勧められ遊覧で来た250人もの団体が堺にもともと一泊しかしない予定だったというのもなんか変ですし、また京の混乱状況から正確な情報が一遍に家康のもとに届くということもなかったでしょう。私は最初の一報は妙国寺で聞き、ある程度京や周辺の情報を収集・分析した上で、堺を出発したのではないかと思っています。(天下を取るような人物ならそうすべき!)宗及も会記に「家康も二日に堺より帰られ候」と記しています。二泊三日かけて家康は無事本拠地に帰りつきました。信長との同盟が結果的に解消されることになった妙国寺での宿泊は家康の運命のターニングポイントとなりました。この時家康40歳。(数え年)
次に家康が妙国寺に来たのは大坂冬の陣の時だと言われています。この時妙国寺には小堀遠州によって家康の居城たる駿河の風景を写した枯山水に寺の名物蘇鉄の木を植えた庭が造られていました。その庭を愛でる家康のイメージを頭の写真にもってきました。いかがでしょう、後一押しで豊臣家を滅ぼすところまできた家康、この時73歳。

チャットGPTで作成
家康にとって残念な伝承が堺には残されています。夏の陣の際真田幸村が突撃に混乱した家康の陣に後藤又兵衛(前日に道明寺の戦いで戦死が定説)が飛び込んできて鑓で家康を刺したというのです。家康は駕籠で堺(4月28日に大坂方により焼失)まで避難してきたが、既にこと切れていたというのです。その証拠に堺の南宗寺にはりっぱな家康の墓が造られています???



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