堺の鉄砲に関しては、このブログでも繰り返し触れてきました。(参照7,24,36)戦国期堺を日本で最も豊な街にしたのは、鉄砲の生産・販売にほかなりません。教科書で習った鉄砲伝来は1543年、初めて鉄砲を見て驚いた日本人は、そのわずか32年後には、大量の鉄砲を活用した長篠の戦を行えるようになりました。それは輸入した物ではなく、弱肉強食の戦国の世を追い風に日本人の創意工夫と勤勉さに支えられ大量に造られ、売れまくったメイドインジャパンの火縄銃だったのです。海外に目を転じても、アステカやインカという中南米の国をわずかな人数で征服したスペイン、インドやインドネシア、フィリピンに貿易拠点を築いたポルトガルやスペイン・オランダも弱肉強食の勝者であったことがわかります。そこでは鉄砲が大きな役割を果たしています。16世紀末、鉄砲を世界で最も所有していたのは日本ではないかといわれていますが、ヨーロッパの国々に侵略されず、長きにわたる「徳川による平和」を迎えることができたのも鉄砲の普及に一因があったのかも知れません。

『放鳥銃定限記碑』と鉄砲試射場碑
南海電車の堺駅(戦国期の港の位置に造られた)の一つ北の七道駅の下に「放鳥銃定限記碑」がたっています。堺市の碑の説明文にはこうあります。
江戸時代に入っても堺の鉄砲鍛冶たちは、全国の諸大名に鉄砲を供給し、多くの鉄砲鍛冶や関連する職人たちが現在の北旅籠(はたご)町周辺に集住していました。それとともに、堺七道浜(しちどうはま)には鉄砲の試射場が作られ、昭和の初めまで「鉄砲塚」としてその面影を残していました。大正3年(1914)頃、大和川畔の東西水路開削工事の際に「放鳥銃定限記(ほうちょうじゅうていげんき)」と題した碑が発見されました。この碑の文は、寛文4年(1664)に砲術家 川名金右衛門忠重によって書かれたもので、恩師 小濱民部丞(みんぶのじょう)嘉隆への賛辞と鉄砲試射場の由来が記されています。
開削工事の発起人であった堺の実業家 柳原吉兵衛は、堺鉄砲の歴史を物語る貴重な石碑を顕彰するために、昭和3年(1928)自然石をくりぬいた中にはめ込み、吉兵衛が経営していた大和川染工所の前庭に建立しました。
戦国期も大阪湾沿いの砂浜でできた銃の試射を行っていたと言われています。ここで試され改良され、全国にメイドインサカイの鉄砲が売られていったのです。今この碑のある場所は鉄砲町と町名がつけられ、大きなショッピングセンターができています。

鉄砲町イオンのショッピングセンター


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