戦国堺の街

戦国堺の街

59 仁徳天皇陵を楽しむ

堺の街の西側に頭を北に向けて寝そべった猫を背中から見たような(個人的感想ですが)深緑の小山が仁徳天皇陵(大仙陵古墳・百舌鳥耳原中陵)です。被葬者が仁徳天皇に特定できないとの理由から呼称は流動的なのですが、コラムでは堺で呼ばれている「御陵」を...
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58 「豊臣兄弟!」の「堺の街」登場に寄せて

今年のNHKの大河ドラマ「豊臣兄弟!」は、シリアスな部分と軽めの芝居の部分(結構笑いもとります)が適当に混ざり合っていて個人的には毎週楽しんで見ています。3月22日放送分では、豊臣兄弟(秀吉と秀長)が初めて堺の街にやってきました。目的は信長...
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57 えらい武家とのつきあい方

「堺幕府」という言葉をご存じですか?1527年から1532年まで堺にあった「幕府」です。教科書的には、室町幕府 12代足利義晴の時代ですが、義晴は政争に敗れ近江に逃げていました。それを助ける管領の細川家も分裂してしまい、細川晴元が将軍義晴の...
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56 ザビエル公園で思う

阪堺電車が走る大道沿いにザビエル公園はあります。旧環濠内では最も広い公園で小さい子でもたちや、犬の散歩、午後には近くの泉陽高校の学生たちで賑やかな公園です。 ザビエルの名を冠するのは、1551年堺に上陸したフランシスコ・ザビエルがこの地にあ...
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50回を振り返る 「黄金の日々」の堺の街とは 

『探求 黄金の日々堺』への投稿も50回を迎えました。2024年の1月にスタートして1年11カ月、最初4カ月は月に3回投稿と頑張りましたが、それ以降は月2回ペースで続けてきました。それらを振り返り、「黄金の日日」の堺はどんな街だったのか改めて...
堺をめぐる人々

41 医書大全と戦国期の医療

始めの写真は、「医書大全」という1518年(北条早雲が亡くなる前年)に堺で翻刻(古文書・古典籍・石碑などに残された古い時代の文字を読み取り、活字化すること)された医書です。翻刻したのは阿佐井野宗端という堺の商人です。婦人科にも精通していたと...
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40 蘭奢待と会合衆

最初の写真、鳥の死骸のような物は、大阪歴史博物館で開催されている(8月24日まで)「正倉院 THE SHOW」で展示されていた天下の名香と称えられる蘭奢待のレプリカです。この展覧会ではその香り(破片を焚いた香り)を科学的に合成した香りを嗅ぐ...
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38 開口(あぐち)神社と菅原神社

堺には昔からお寺がたくさんあります。(参照12堺の富はどこへ行った)それに比べ神社は数えるほどしかありません。大坂夏の陣で街の大部分が焼け、再建された後の調査ですが、17世紀中ごろお寺は186あったと記されています。(堺鑑・当時の人口5万人...
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37 港の変遷 旧堺港の整備に寄せて

上の写真は旧堺港、平日の昼下がり、向かいの岸壁には白いクルーザーやヨットが係留されていますが、湾内は静寂に包まれていました。望遠鏡を持つ呂宋(るそん)助左衛門の像と小さな湾を隔てて16メートルの台座の上に立つ乙姫像がただ静かな海面を見下ろし...
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33「黄金の日々」に至るまで 3  琉球貿易と三味線

遣明船が帰ってきた際の堺の街の熱狂に関して以前触れました(29「黄金の日々」に至るまで1)が、貿易港としての堺の発展に大きく影響したのは、明との貿易だけではありません。琉球との通商も大きなウエイトを占めました。10年に1度程度しか受け付けら...