戦国期の堺は、街の三方(西側は海)を濠に囲まれた環濠都市でした。もちろん大きさは今の堺市よりずっと小さく南北に2キロ強、東西に1キロ弱の街を濠が取り囲んでいたと言われています。戦国の世ですから、濠はもちろん街の防衛のためです。幅は10メートルを越え、深さは3メートル。場所によっては二重に濠が掘られていました。
主な街道に向けて濠には橋をかけ、橋のたもとには門を設けて守備兵を置いていました。濠を掘った土は、濠の内側に積み上げ土塁として防衛力をあげていました。
こうした戦国期の環濠都市は堺だけでなく、大阪の平野、奈良の今井、兵庫の尼崎など近畿にはいくつかあります。経済力のあった街は、防衛のために濠をめぐらし、盗賊やその地区の有力勢力からの侵攻に備えたのです。なお、今残っている堺の環濠は、戦国期のものではなく、江戸時代になって改めて掘られたもので、西側は高速道路の建設のために埋められてしまいました。
平和になった今、堺の環濠は、クルーズに使われています。
ナイトクルーズの乗り口前に、日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルの人形が置かれていました。ザビエルは、1550年海路堺に来て、日比屋了珪のという商人の屋敷に迎えられたと言われています。日比屋は、この乗り口のすぐ近くにあったと推定されていて、屋敷跡はザビエル公園(戎公園)という公園になっています。
ザビエルが堺に来たのは、京に行って日本での布教の許可を取るためですが、堺自体にもかなり興味を持っていたことが、彼の書簡からわかります。
『もし日本の国王が、わが聖なる信仰に帰依されるならば、ポルトガル王にとっては、物質的な利益も著しいものがあるだろう(略)そうなると日本の大いなる港都堺に、ポルトガルの商社が設けられるだろう。堺という町には裕福な商人が沢山住んでいる。そして他の如何なる日本の地方も及ばない位に、そこへ金銀が流れ込んでいる。私がこんなことを書くのは、(略)唯、神の愛の故にのみ、神父を渡航せしめるための船を出してくれる者などは、殆どあるまいと考えるからである。(略)それで神父の乗っている船には、胡椒を沢山積んではならない。多くとも八十パルに止められたい。何故なら、少ない方が日本に高価に売れて利益が大きいからである。特に堺に於いて然りである。』
(聖フランシスコ・デ・ザビエル書翰抄 下巻)
聖人ザビエルも、決して信仰一途の心持の人ではなく、イエズス会のパトロン的なポルトガル王の経済的利益にも目配りできる人であったことがわかる手紙です。そして、堺の裕福さ、経済拠点としての重要性を認識した上で彼は堺にやってきたのです。
北スペイン(バスク地方)の貴族の息子として生をうけたザビエル、
碑の前には大きなオリーブの木が茂っていた。
来日して1年少しの宣教師にもわかる堺の裕福さ、堺の商人たちは濠を掘り、多くの傭兵(日比屋は中堅どころの商家と思われますが日比屋だけで400名程度の傭兵がいたと記されています)を雇い、街と自分の店、店の品の流通を守りました。黄金の日々の堺は、大いに金銀が流れこみ、それを守るために守りを固めていきました。しかしそれは、堺の富を狙う周りの狼たちにとって、どんどんうまそうに肥え太っていく獲物に見えたことでしょう。
※これを初回として、黄金の日々堺のかけらを拾っていきたいと思います。 2024.1.13

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