7 堺と鉄砲 (祝 鉄砲鍛冶屋敷オープン)

戦国堺の産業
鉄砲鍛冶屋敷(井上関右衛門家住宅)

戦国期の堺の最大の製品で商品は何かと聞かれたら間違いなく鉄砲でしょう。戦国末期、戦の勝敗を左右する鉄砲は、二カ所で集中的に生産・販売されました。近江・国友村と堺です。二つの拠点を押さえた信長は、天下統一に向けた武力を持つことができたのです。

鉄砲は堺を黄金に輝かせた最重要な物ですが、国友村には、『国友鉄砲ミュージアム』が設けられていたにもかかわらず、昨年まで堺には博物館的な施設はありませんでした。(民間の方が堺鉄砲館をされていました)しかし、今年3月3日『鉄砲鍛冶屋敷』がオープンしました。江戸初期から鉄砲鍛冶を営んでこられた井上家の屋敷(全国に唯一残る鉄砲鍛冶の作業場兼住宅。4年前までは住居として普通に生活をされていたそうです)を博物館的に改築したのです。

鉄砲の鍛冶工程をわかりやすく展示 鉄砲鍛冶屋敷

鍛冶屋敷の中は、鉄砲鍛冶のやり方や生産の分業システムの解説などわかりやすくまとめられ、ゲーム的に鍛冶が体験できるなど工夫がこらされています。

さて、堺に鉄砲をもたらしたのは堺の商人であった橘屋又三郎であつたと言われています。種子島に鉄砲が伝来してすぐに又三郎は種子島を訪れ、生産方法と射撃法を学び、堺に帰り、鉄砲の生産を始めました。砲術にも秀でていた又三郎は、「鉄砲又」と呼ばれました。彼に続いて今井宗久など大商人が鉄砲の生産を始めます。周辺の権力者から統制を受けない堺は、多方面の勢力との取引もできましたし、商業活動による資金力もあって鉄砲の大生産地となっていったのです。

鉄砲は、単に鉄砲の生産・販売だけでなく、撃つための火薬・弾丸も必要です。当時の火薬は、硝石・硫黄・木炭を混ぜた黒色火薬です。硫黄・木炭は国内で手に入りましたが、戦国期硝石はほとんど輸入品でした。また弾丸に使う鉛も輸入に頼っていました。貿易港でもあった堺は、硝石や鉛が手に入る窓口でもありました。

タイ(アユタヤ朝)の四耳壺(しじこ) 堺鉄砲館蔵

当時硝石は、中国やタイから輸入されていたといいます。左の写真のような四耳壺が堺の戦国期の地層からたくさん出土しています。こうした壺に入れられて多量の硝石が堺に届けられたのでしょう。鉄砲関連の生産・輸入・販売で堺には多量の金銀が流れ込みました。まさに鉄砲バブルとでもいうような。

諸説ありますが、1543年に種子島に伝来した鉄砲は、数年で紀州根来や堺で生産が始まり、最初の鉄砲による戦死者の記録は1550年、その25年後に長篠の合戦がありました。西洋からもたらされたこの人を殺す装置は、群雄割拠の日本でまたたく間に広がり、16世紀末には世界最大の鉄砲保有国になったともいわれています。

戦国の終焉は、鉄砲バブルの終わりでもありました。大坂夏の陣で落城の原因にもなった大坂城を砲撃したという大筒は、堺で造られたものでした。

大筒(複製) 堺芝辻理右衛門の銘がある 堺市博物館蔵

 

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