「泉南仏国(せんなんぶっこく)」という言葉があります。中国の福建省の泉州(中世海上貿易の中心地)で仏教が盛んだったことをうらやんだ禅僧が、堺のお寺が多いことを表現するのに借用したとか。
遣明船の発着や琉球貿易、鉄砲の生産と販売、室町から戦国期にかけて堺の商人たちは、莫大な富を得ました。では彼らは儲けたお金を何に使ったのでしょう?
かつて街の人が何にお金をかけるかを比較して、京の着倒れ、大坂の食い倒れと言われていました。そして堺は、「建て倒れ」と建物にお金をかける街だと言われてきました。このブログでも触れた津田宗及(5華麗なる交遊録を参照)は、父の弔いに大通庵(明治初年に廃絶)を創建しました。室町から戦国期にかけて寺院を建てたのは商人がほとんどですが、最初の天下人と言われる三好長慶(6戦国堺をめぐる人々1を参照)も父の菩提を弔うために南宗寺を創建しました。自分の住む家だけでなく、お寺を建てることにお金を使い、たくさんの寺院が堺にできました。おかげで「泉南仏国」と呼ばれるようになったのです。
当時たくさん建てられた寺院は現在どうなっているのでしょうか?統計によると堺市の仏教系の宗教法人数は、318(令和4年3月現在)、区別の統計がないため、戦国期の堺を包括する堺区の寺院数をタウンページ(2024.3堺市堺区・西区・高石市版)でカウントしてみました。堺区だけで91、堺市全体の28.6%、4分の1以上を占めています。堺だけでは多いかどうかわからないので、お寺の多い京都と比較してみました。(タウンページ2023.6京都市東山区版・中京区版)東山区(有名な清水寺や知恩院といった観光名所の寺がたくさんある鴨川の東側)には126と中京区(有名なお寺では本能寺や新選組が剣術のトレーニングをしていた壬生寺がある京都市の中心部)には52のお寺がありました。これだけでは比較しにくいので、それぞれの区の人口をお寺の数で割ってみました。堺市堺区は、1寺あたり1639人、京都市東山区は280人、中京区は2121人となりました。戦国期堺にいくつ寺院があったかはわかりません。400年以上もたっているのですから、その間廃絶したお寺もかなりあったでしょう。しかし今も堺区には多くの寺院が残っています。泉南仏国の伝統は、令和の時代にも引き継がれているようです。

樹齢1100年と言われる妙國寺の蘇鉄 信長の命で安土城に移されたが後に返されたという
堺の有名な寺院に妙國寺があります。徳川家康が、本能寺の変の前日宿泊していたことでも知られています。三好長慶の長弟にあたる三好実休が創建しました。三好家は、堺の街を保護する代わりに、堺の商人たちから莫大な金銭を得ていたと思われます。その一部が南宗寺・妙國寺という堺を代表する寺院になったのです。
室町・戦国期、堺に集まった莫大な富の一部は寺院に姿を変えました。堺の街を守る大勢の傭兵たちにも流れたことでしょう。また一部は茶道具や茶室に姿を変え、茶道の興隆をもたらしたのではないかと思っていますが、これは後日また触れたいと思います。

岸和田市の久米田池の近くにある実休の戦没碑 根来衆の銃弾に倒れたという
阿波から出て、関西の大部分を押さえた三好長慶・実休の兄弟は前後して堺に壮大な寺院を建てることを決めました。しかし残念ながら二人ともその完成を見ずに亡くなってしまいます。織田信長が、足利義昭を奉じて上洛したのは、実休の戦死の6年後、長慶の病死の4年後でした。


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