新堺音頭の出だしに「物のはじまりゃ なんでも堺 三味も小唄もみな堺」とあります。前回小唄を広めた高三隆達に触れたので、今回は堺が発祥と言われる(製法は中国から伝わったものですが)線香をフォーカスしたいと思います。
現在、五感の一つ嗅覚を刺激する香りを追求する商品は巷にあふれています。戦国期の堺人も香りを追い求めていました。以前紹介した、天王寺屋会記にもこんな一説があります。津田宗及が父親から会記を引き継いだ年(1566年)の12月30日千宗易(後の利休)や宗及の親しい商人仲間の朝の茶会で「香十種バかりきき候 常之香炉にて」の記述の後その夜のこととして「四条(引接寺)の前にて雪之中ニ香を聞候 良向・宗てつ・宗及三人」とあります。雪の夜寺の前で仲間と香を聞くとはどのような精神状態だつたのでしょう。
雪の中の香から8年後、天王寺屋会記にこんな記述がでてきます。「御会(相国寺の茶会)過テ、蘭奢待(らんじゃたい)一包拝領申候 中略 宗易・宗及両人ニ迄被下候」蘭奢待は、東大寺正倉院に収蔵されている天下第一といわれる沈香(じんこう)です。この茶会の数日前、織田信長が東大寺にかけあって足利将軍家にしか許されていない切りとりを強行したと言われています。宗及は既に信長とは深い関係を築いていましたが、拝領・被下(くだせられ)と何度も書いているところに彼の歓びが出ているように思えます。
さて、戦国期の堺を代表する人物として宗及の日記を引用しましたが、宗及だけでなく堺人の茶会や集まりにはおもてなしとして香が焚かれることが多かったのでしょう。そうしたニーズに応えるように天正年間(1573年~91年)には、中国から伝えられた製法を使って線香を売り出す店がでてきたそうです。東南アジア各地から堺に運ばれた沈香(じんこう)や白檀(びゃくだん)といった香木を粉末にして固め、それをそうめん状に押し出してつくるのです。(日本の線香の起源は諸説あります)
堺にある多くの寺院や香好きの堺商人に支えられ、線香は堺名物に育っていきます。江戸中期には、40あまりの線香を扱う店が堺にあったそうです。太平洋戦争前には、店舗は、65軒にまで増えたといいます。しかし、戦災により多くの店が焼失してしまい現在営業しているのは11社になってしまったといいます。(フォーラム堺学第17集「香の町 堺 を語る」奥野圭作氏)

堺伝匠館内の線香の展示
柔軟剤や芳香剤といった香りに囲まれた現代社会、香木からの柔らかく心に安らぎを生む天然の香りを広めていきたいと堺では新しい線香が生み出されています。


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