9 菜の花と堺

戦国堺の産業

はてもなく菜の花つづく宵月夜母がうまれし国美しき

堺生まれの歌人与謝野晶子の短歌です。晶子は、はてもない菜の花をどこで見たのでしょう?私は、晶子の菜の花の原風景は、旧堺の北東に隣接していた遠里小野(おりおの)ではないかと想像しています。

遠里小野の町名は、大阪市住吉区と堺市堺区の両方にあります。(堺は遠里小野町と町がつきます)大和川が大阪市と堺市を分断していますが、大和川が付け替えられる1704年までは、一つの村でした。

大阪市の遠里小野と堺市の遠里小野町を結ぶ遠里小野橋

遠里小野は日本の搾油発祥の地と言われています。古代よりハシバミの木から油を搾りすぐ近所にある住吉大社に灯火用として奉納していたと言われています。しかし9世紀後半灯火用として荏胡麻(えごま)油が一般的となりはしばみからの搾油は減退していきました。しかし戦国末期ごろから菜種(なたね 正式な作物名、菜の花は黄色い花の咲くアブラナ科の総称で使われることが多い)からの搾油法が遠里小野で開発され、荏胡麻油よりも搾油効率が良いことから全国的に広がっていったそうです。

なぜこのブログで遠里小野の菜の花を取り上げたかというと、遠里小野で菜種油の生産が盛んになった一番の原因として大消費地が近くにあったことが考えられます。荏胡麻油から菜種油に変わったといっても、ともに高価で夜になって灯火を使うのは、一部富裕層に限られていました。多くの庶民は、暗くなったら寝て灯火を使わない(使えない)か、使ったとしても魚油や鯨油の値段は安いが臭いのきつい油だったようです。堺の豪商や彼らが建立した寺社では、煙も臭いも少ない菜種油を好み、夜を明るくしていったのでしょう。堺の富が菜種油を育てていった、ように思うのです。そして、戦のない世になると全国に拡がっていったのではないでしょうか。

私の想像の中では、開口神社(堺南荘の氏神社)の近くや堺の北端あたりの遊郭や飲み屋では暗くなるといくつもの灯台を並べ、菜種油を太い灯心を入れた油皿にたっぷりと注ぎ込み、店の内を煌々と照らしています。障子に映る遊女の影や、格子から漏れる光が道行く旅人や酔客たちを誘っているのです。

遠里小野小学校前の菜の花

現在住吉区の遠里小野地区では、菜種油発祥の地として、地元有志の方々が、菜種の古来種(現在搾油用に使われているのは大半がセイヨウアブラナだそうです)を栽培されています。また小学校で菜種の油絞りの出前授業をされたり、菜種油発祥の地を知ってもらおうと活動をされています。

菜の花畑という日本の春のなつかしい風景も戦国堺のカケラ、というのは少し言い過ぎでしょうか。

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