13 顕本寺と墓所にする二人

堺人
顕本寺の入口 オープンな雰囲気で見学しやすい

前回のブログで妙國寺を取り上げたので、今回は同じ日蓮宗の顕本寺を取り上げたいと思います。顕本寺は、応仁の乱が起こる前、堺の商人たちが寄進して堺の中心部に創建されました。妙國寺ができる111年前のことです。動乱の戦国期、塔頭(本寺の中に子寺)11ヶ坊、100余の末寺を擁する大寺院に発展していきます。顕本寺の歴史を語る上で外せない人物がいます。三好元長と高三隆達(たかさぶりゅうたつ)という対照的な人生をおくった二人です。

三好元長は、このブログでも取り上げた三好長慶の父親です。四国の阿波の国の地侍であった三好氏は、元長の祖父の代から足利幕府の管領である細川氏の有力な被官として畿内で活躍します。元長はそれを引き継ぎ、阿波の侍たちを率いて、複雑に絡まった足利将軍家・細川氏の家督争いに参戦していきます。そして12代将軍足利義晴と対立した弟の義維の「堺幕府」設立の最有力メンバーとなります。幕府の中心は顕本寺に置かれたと言われています。

2018年6月             顕本寺で行われた元長忌の祭壇

平成24年から顕本寺では、毎年6月中旬に元長忌を開催しています。「堺幕府」の中心メンバーとして奮闘した元長が直接の上司である細川春元に裏切られ、10万の一向一揆の軍勢に取り囲まれ、自害したのが、1532年6月20日でした。享年31歳。無念の気持ちから、己の腸を顕本寺の本堂の天井に投げつけたと言われています。

さて、もう一方の高三隆達は、堺の薬種商を営む高三家に生まれました。元長が自害した時は5歳でした。日蓮宗の熱心な信者だつた父が顕本寺に建てた塔頭を継ぐため僧侶となります。父親の創建した高三坊の住職という立場、気楽だったのか、それとも隆達が破天荒だったのか、僧侶には似つかわしくない形で有名になっていきます。美声だったという隆達、彼が作り自ら歌った歌を回りの人たちがこぞって口ずさんでいったのです。テレビやネット、コンサートという手段がない時代、私の想像ですが、隆達は茶会(当時の茶会は現在ほど作法に縛られてはいませんでした)や宴会に積極的に出て行ったのでしょう。そこで披露した歌が人々の心に残り広がっていったように思うのです。その歌は、隆達の死んだ後も歌われ続け江戸期の歌謡に大きな影響を与えました。恋の歌が多いのですが、私の好きなとっても短い、でも無常観をにじませる歌をひとつ、

あら何ともなの うき世やの

隆達の顕彰碑 顕本寺には隆達の墓も岩に取り付けられたレリーフもある

83歳まで長生きし、還暦を過ぎてから還俗し実家の甥の商売をサポートをした隆達、高三家は、堺の舵取り役である会合衆の一員となり、江戸期にも火薬を扱う商家として繁栄を続けます。一方元長が切腹する直前に妻に託し本拠地の阿波に帰した遺児長慶は、兄弟協力して一旦は畿内を押さえますが、死後信長の攻勢によって三好家は滅亡してしまいます。

顕本寺に墓所を置く二人、住職さんによってその生きざまを後世の我々に伝承してくれています。顕本寺HP

※年齢は実年齢で示しています

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