先日堺ユネスコ協会が主催した「堺の伝統産業を体験する」というイベントに参加しました。三味線・お茶・お香という堺に縁のある物を扱っている堺の老舗の代表の方々のお話とともに三味線に触ったり、冷たい抹茶をいただいたり、お香の型抜きしたりできるイベントでした。30分ずつの短い時間でしたが、それぞれ創業から150年以上も続く(お香の会社は300年も!)の老舗を営まれている方々にお会いでき色々刺激をいただきました。

香を調合した練り玉(線香のもと)を薄く伸ばして型抜きしてみました
三味線は、三線が琉球から堺に伝わり堺で今の三味線の形(大きさや太鼓に貼る革の変更)になり、お茶は堺で洗練され、茶道として発展していきます。またお香は、堺で線香となり今に至ります。(14物の始まりなんでも堺 参照) 戦国期の堺は世界に扉を開き、柔軟に新たな物を受け入れ、消化し生産していきました。鉄砲は有名ですが、(7堺と鉄砲 参照)他にも色々な物がつくられました。堺には、海外にまででかける貿易商人もいましたが、職人も多く暮らしていたのです。(戦国期の堺は現在の堺区に含まれる南北2300メートル 東西600~700メートルの砂浜に沿った細長い街でした)
「左海鑑」という17世紀後半に書かれた地誌があります。1615年大坂夏の陣で堺全域が焼けてしまい(3戦国堺は土の中 参照)、改めて街が再建されて60年以上の年月が経った堺の街に暮らす人々の職業に関して書かれています。(堺研究 第44号 堺近世の産業構造と生産・衣食住 吉田 豊)戦国期何回も戦禍にあった堺には残念ながらこのような記録は残っていないので、最も古い堺の街に暮らす人々の職業を見ていきましょう。
堺の総戸数は21859軒(借家含む)あります。戦国期花形であった鉄砲鍛冶が、平和になった江戸初期にも54軒あり、鉄砲の台師が14軒、金具師が13軒と鉄砲関係だけで81軒あったことがわかります。今回お話しをうかがった老舗の方々の業種を探してみると、お香を扱う香具屋は17軒、煎茶問屋が4件、煎茶小売は56軒と記録されていますが、残念ながら三味線を扱っている店はわかりませんでした。全部で164種の業種が掲載されています。
これが多いのか少ないのか、他の都市のこうした記録が少ないので比較のしようはありませんが、戦国期の堺は貿易も行う豪商とともに、その資本を基に職人を集めてマニファクチャー的な工場も作られていたことはわかっています。秀吉が大坂の街を整備していく過程で堺の豪商たちを呼び寄せるとともに、江戸期に入ると物流の中心を大坂に据えた影響でさらに多くの商売人が大坂に移住しましたが、分業化された職人は移住のハードルが高かっただろうと言われています。華やかな貿易商業都市から、分業化された手工業が盛んな都市へ、戦国以降の堺の街はその形を変えながら生き残っていったのでしょう。そしてそれを今も受け継ぎ発展させている人たちがいます。

イベントでは氷入りの抹茶をいただきました。酷暑の日、一服の清涼


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