紀州街道は、江戸時代、大坂の高麗橋から和歌山城下の京橋を結び大阪湾沿岸を通る17里4町(約67㎞)の街道です。江戸中期より紀州徳川家の参勤交代の道として整備されたと言われています。もちろんそれ以前から多くの人や荷物が行き交う街道で、堺の街を南北に貫く主要道路であったので堺の街の中では大道と呼ばれていました。前回このブログで触れた住吉祭もこの街道を住吉大社から堺の宿院まで練り歩いたのです。大道には明治44年から阪堺電車(通称チン電)が走り続けています。

綾ノ町の駅舎(天王寺行方面)の横を行く阪堺電車
阪堺電車の駅名は堺の古い町名が使われています。綾ノ町・神明町・寺地町、これらの町名は戦国の前から使われていたようで、大坂夏の陣で堺が全焼した(1615年)後、江戸幕府の命により再建された堺の街にも焼ける前の町名がつけられたようです。江戸元禄期に作られた絵図を見てみましょう。

元禄二年堺大絵図(国立歴史民俗博物館蔵) 堺綾之町周辺
真ん中の道路(大道)に綾之町・桜(之)町の町名が記されています。環濠に囲まれていた堺の旧市街全域は、この地図に記された町名を現在も使っていて、大道を境に綾之町東・綾之町西といった形式の町名になっています。町名の由来も興味深いものがあるのですが、またこのブログで取り上げられたらと考えています。
堺の主要道路はもう一つ大小路があります。和泉と摂津の国境を通る道として堺の地名の起こりとなり、この道を中心に堺は発展していったと言われています。大小路は、奈良に続く長尾街道や西高野街道とつながっていました。

大道と大小路の交差点に建てられた清明辻跡の碑
この二つの主要道路が交わる四つ角に面白い碑が建っています。清明辻跡と書かれています。陰陽師として名高い安倍晴明が、この辻に占いの書を埋めたと伝えられています。それ以来この辻で占いをすると必ず当たるのだとか。安倍晴明が生まれたという安倍晴明神社は、この辻から北に7㌔ほど、清明のお母さんだったと言われる狐(信太妻)が祭られている葛葉稲荷神社は南に9㌔、紀州街道を使って清明は行き来していたのでしょうか?
恋しくば尋ね来て見よ 和泉なる信太の森のうらみ葛の葉


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