かつての堺は周りを濠(幅10m 深さ2~3m)に囲まれた環濠都市でした。(参照3 戦国堺は土の中 )信長が上洛して堺に圧力をかけた頃(1569年)には一部の濠は二重になっていました。(10 戦国堺をめぐる人々3:織田信長 参照)しっかりと濠で守られた中は(南北約2.5㌔東西650m)2万戸の家が建ち並び、6~8万人の人々が暮らしていたと言われています。彼らが暮らしていた堺の街の様子を今に残された町名から探っていきましょう。なお戦国期の堺の街は、1615年の大坂夏の陣の前哨戦で大部分が焼失し、戦後徳川幕府の肝いりで街が再興されました。元和の町割と言われる街の再編で街の規模は大きくなり、東側の農民を住まわせた農人街や散財していた寺院を集中させた寺町といった新しい街もでき、道路も碁盤の目のように整備されました。しかし町名は戦国期の街から取ったようです。明治5年、町名も統合整理され、大道(紀州街道)を境にして、東西に分かれる24町となって今につながっています。
まず初めは北から(かつて街の北には住吉大社から続く紀州街道の橋、北之橋が架かっていました)四番目
綾之町(あやのちょう)

新日本古典文学大系 七十一番職人歌合より
阪堺電車の駅名にもなっている綾之町です。(20 紀州街道と堺の町名参照)
「綾」の文字は模様が織り込まれた薄絹を表します。応仁の乱(1467~77)の時、京の織手が乱を避けて堺に避難しました。彼ら・彼女らが住んだのが綾之町周辺だったのです。(綾之町の南側は錦之町)堺で彼らは単に避難していただけでなく、新たに中国(明)から堺に伝えられた技術を習得し、京に帰ってから西陣織を生みだしたと言われています。
堺の古い町名には、職人や職業にちなむものが多くあります。旅籠町(北と南にあります)材木町、宿屋町(しゅくやちょう)などは商売がすぐわかる町名ですね。
櫛屋町(くしやちょう)

新日本古典文学大系 七十一番職人歌合より
櫛屋町もわかりやすい地名です。もちろん櫛屋町にしても櫛関係者だけが住んでいたわけではありません。ザビエルが布教のために堺に来た際泊まった日比屋はこの町にあり、その後もイエズス会の宣教師たちを保護しました。「日本史」を著したルイス・フロイスもこの町で5年間暮らしています。
降誕祭(クリスマス)になった時、折から堺の市には互いに敵対する二つの軍勢がおり、その中には大勢のキリシタンの武士が身受けられた。ところでキリシタンたちは、自分たちがどれほど仲が良く互いに愛し合っているかを異教徒たちによりよく示そうとして、司祭館は非常に小さかったので、そこの町内の人々に、住民が会合所にあてていた大広間を賃借したいと申し出た。その部屋は、降誕祭にふさわしく飾られ、聖夜には一同がそこに参集した。 完訳フロイス日本史
フロイスは、一種の休戦を行った上で、堺の櫛屋町の会合所で行われたクリスマスの様子を「70人の武士がおり、互いに敵対するする軍勢から来ているにもかかわらず、あたかも同一の国王の家臣であるかのように」愛情と礼節・整然、清潔で驚嘆に価したと感動を込めて書いています。日比屋の跡地は、現在ザビエル公園として種々の記念碑が建てられています。 続く


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