戎之町(えびすのちょう)

旧堺港にある呂宋助左衛門像と屋敷を移したという大安寺
環濠堺の真ん中を東西に分ける大小路の北側に戎之町はあります。戎様の石像が町名の由来と言われています。豊臣秀吉の頃ここに住んでいたと言われているのが南蛮貿易で財をなしたという納屋(呂宋 るそん)助左衛門です。1978年NHK大河ドラマ「黄金の日々」の主人公です。商人が大河ドラマの主人公になるのは初めてのことでした。戎之町より500m程南の南旅籠町に大安寺というお寺があります。大安寺の本堂は、助左衛門の別邸を移建したと言われていて国の重要文化財に指定されています。マニラ(呂宋)まででかけて買い回る交渉力と、政権の中枢に入り込んでいく行動力で巨万の富を築いたといわれる助左衛門、松永久秀(参照戦国堺をめぐる人々2)が助左衛門を諫める意味でつけたという柱の刀傷も本堂には残されています。本能寺の変の5年前に亡くなった久秀と豊臣秀吉の政権下で飛躍したと言われる助左衛門、面識があったかどうかもわかりませんが、絢爛豪華な部屋に残された小さな傷に中々におもしろいいわくがつけられています。
宿院町(しゅくいんちょう)
住吉大社・大鳥大社の御旅所があることで宿院とよばれていて、(参照19 住𠮷祭2024)かつて今市町と呼ばれた町域も含まれています。今市町には、千利休の屋敷があ

堺市博物館前の利休像と屋敷跡
りました。堺の歴史上の有名人といえば一番に名のあがる利休、屋敷跡は大小路と平行につけられたフェニックス通りのすぐ南側にあります。奥には利休が水を汲んだという椿の井戸が残されています。利休は70歳(かぞえ)で切腹し、大河ドラマでは高齢のイメージが強いですが、茶を習い始めたのは17歳、その後すぐに父親と祖父を続けざまに亡くし「ととや」と言われる家業の塩魚を扱う店を若いうちから経営していた(倉庫業という説もあり)といわれています。記録されている最初の茶会は23歳の時、堺の港と泉佐野にもあったという倉庫を行き来しながら、なんとか時間を作っては茶をたてていたのでしょうか。仕事と茶にどのように折り合いをつけていたのかと、秀吉と諍いの元になったという京都大徳寺山門の部材で建てられたという井戸屋形を見ながら利休の若き日に思いをはせました。
屋敷跡のすぐ西側には、利休と与謝野晶子を記念した

通路正面の塀の向こうは利休の屋敷跡
「さかい利晶の杜」が建てられています。その敷地には唯一現存する利休が作った茶室「待庵」のレプリカともいうべき茶室が建てられています。茶という接待行為を若いころから追求してきた利休の魂が屋敷跡にやどっているとすれば、秀吉を迎え入れるために作ったともいわれる茶室をどういう思いで塀越しにのぞき見ているのでしょうか。


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