毎年10月の第3日曜日に開催される堺祭、今年も南海高野線の堺東駅と南海本線の堺駅を東西に結ぶ大小路をメイン会場にして開催されました。以前にこのブログでも書きましたが、10世紀頃から堺の街はこの大小路を中心に発展していったのでイベントの舞台としてはここしかないでしょう!

大小路に並んだふとん太鼓
さて、祭ではふとん太鼓の担ぎあいや堺市内の学校や団体のダンスや色々なパフォーマンスがにぎやかに行われていました。
その中で異彩を放っていたのが、火縄銃の演武です。堺火縄銃保存会が最初の火ぶたを切ったのですが、他に六つの火縄銃関係の団体が時間を分けて演武を行いました。火縄銃が最初に伝わった種子島(鹿児島)から、火縄銃生産で堺のライバルだった国友村(滋賀)からも、鉄砲の傭兵部隊で名をはせた根来・雑賀(和歌山)など戦国の有名鉄砲処の団体が総出演です。
火縄銃の伝来は諸説ありますが、1543年にポルトガルの商人によってもたらされたことが最も有力です。種子島の領主がポルトガル商人から高額で買った2挺の火縄銃、一つは地元の鍛冶職人が研究し、自ら製造できるようになりました。その製法を学んだのが堺から来た橘屋又三郎です。また、種子島に来ていた根来寺の津田監物が持ち帰った火縄銃をコピーしたのが芝辻清右衛門です。根来で作られた火縄銃は人的交流の多かった雑賀にも渡りました。根来から地元の堺に帰った清右衛門は、堺でも鉄砲生産を始めます。橘屋又三郎・芝辻清右衛門が中心になって堺の鉄砲製造は発展していきました。(7 堺と鉄砲 参照)ポルトガネル商人から購入したもう1挺の火縄銃は、種子島の領主から薩摩を通して、足利将軍に献上されました。こちらも将軍からの要請で国友村の鍛冶職人がわずか半年でコピーしたと言われています。

天文十三年(1544年鉄砲伝来の翌年)創業の国友源重郎商店
以前国友村を訪ねたことがあります。戦国から江戸期にかけては鉄砲を製造している所が八十戸もあったといわれていますが、今は閑散とした農村です。その中で驚いたのが創業から480年の看板を掲げた火薬を扱う商店があつたことです。
さてこの火薬店はどこから火薬の元となる硝石(当時の火薬は硝石70%硫黄20%木炭10%で作る黒色火薬)はどうしたのでしょうか?江戸期になると硝石も国内で作られますが、戦国期は中国や東南アジアからの輸入に頼っていました。たぶん国友村に一番近い貿易港の堺から硝石を買い入れていたのだと思われます。
種子島・根来・雑賀・国友と戦国期から鉄砲によって結ばれていた土地の子孫たちが堺祭に集まって火縄銃を撃つ、そんな風景に歴史の浪漫を見るのは私だけでしょうか?


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