戦国堺は三方を濠で囲まれていました。(西側は海)幅10m深さ3mもあった部分も発掘調査で出てきています。部分的には二重の濠になった部分もあったそうです。上部の写真は、1615年大坂夏の陣の前哨戦で全焼した堺の街を復興させる際改めて掘られた(戦国時代の濠を活用したものもあったでしょうが)物で、現在は内川・土居川と呼ばれています。土居とは堤防や土塁を意味しますので、濠を掘った土を濠の内側に積み上げ、矢避け、鉄砲避けにしていたのでしょう。夏の陣が終わった後になっても濠を作り直したというのは堺の住人たちが濠に関して街の安全を守るためにどうしても必要な物と認識していたことを示していると思います。今と違ってショベルカーといった重機のない時代、街の周りに広く深い濠をめぐらすのは、工事に参加する人員の確保と、経済力がなければできません。近畿の環濠都市といえば、兵庫の尼崎や大阪の平野、奈良の今井が有名ですが、いずれも有力商人が多くいたり、浄土真宗の寺院を中心とした宗教都市(寺内町)です。
1568年10月織田信長が上洛して堺に2万貫を要求した際、堺は臨戦態勢にはいります。 その様子を天王寺屋会記(5 華麗なる交遊録)ではこう記しています。
「去年十月比ヨリ、堀ヲホリ、矢倉ヲアゲ、事他用意イタシ候」
信長に対して環濠を整備し直し、矢や鉄砲を上から打ちかける櫓(やぐら)を建てていたのです。街を守るためにいかに濠を重視していたかがわかります。引用した部分の初めに「去年」とあるようにこれを宗及が書いたのは翌年の1月です。実は信長は、上洛時には堺を攻めず、いったん本拠地の岐阜に帰ります。そのすきをついて、前の畿内の支配者であった三好氏が本拠地の阿波から海を渡り堺に上陸して京に攻め上ります。堺が三好氏を「推し」ていたのです。三好氏が再び上洛してきた信長に蹴散らされたため、堺は信長に白旗をあげて2万貫を払うことにします。それが悔しかったのか宗及は先ほどの文章に「無専」(せんなし)と続け、その後に「堺津中之道具女子共迄、大坂・平野へ落シ申シ候也」と記しています。

大阪市平野区にある環濠跡 杭全神社の東側の部分
堺と平野は、10㌔ほどしか離れていないこともあり、交流はさかんでした。実は宗及は、信長が初めて上洛する半年前平野を訪れ5日にわたり平野の有力者の茶会に招かれています。話し合われた内容は記されていないので、訪れた目的はわかりませんが、堺の政治を左右する会合衆の一人であった宗及が信長上洛に向けて平野の有力者との情報交換やもしものための対策を話し合っていたとすれば、平野への避難に生きてきたのかもしれません。

奈良県橿原市今井町に残る環濠跡 町の南側の部分 今井町はかつて「海の堺、陸の今井」と称されたという
先日今井町を歩いてみました。江戸時代の町屋が多く残されていて、町屋をリノベーションしたカフェやレストラン、お土産屋さんがいくつかあって、小さい町ですが、しっとりとタイムスリップした気分で町歩きが楽しめるようになっていました。平野は町屋は残っていませんが、日本唯一の連歌所(連歌は戦国時代に大流行した)や色々なおもしろい小さな博物館が環濠都市の魅力を発信しています。濠が広く、遊覧船でクルーズ(1 ザビエルの見た堺)までできるのが堺の環濠の何よりの魅力と言えると思います。


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