天下三宗匠(そうしょう)という言葉があります。宗匠とは、和歌や俳句、華道や茶道の師匠のことで、ここでは安土桃山時代に茶の湯の師匠として活躍した、千利休・津田(天王寺屋)宗及・今井宗久をさします。三人とも堺の商人ですが、利休と宗及(そうぎゅう)は、祖父母の代から堺ですが、今井宗久は、奈良県橿原市の今井町の出身だと言われています。堺に来て武器商人であり茶人として有名な武野紹鴎の娘婿となり、商売でも茶の湯でも頭角を現していきます。
宗久は、1568年信長が上洛するといち早く高槻市にあった信長の本陣に駆け付け、茶器を献上しました。献上品の中には、亡くなった紹鴎の持っていた名物の茶入れも含まれていたため、後々紹鴎の遺児と揉めることになります。
信長に取り入った宗久は、信長と対立する三好三人衆を援助する堺代々の豪商たちと対立することになります。しかし、信長支持を貫き、堺を信長方につけた宗久は、信長から堺五箇荘の代官職や淀過書船の利用(淀川の通行権)、生野銀山などのの支配権を委ねられました。単なる茶の宗匠ではなく、「部下」として信長の下につくことになります。また単なる代官だけでなく、支配をまかされた五個荘に、鉄砲の職人を集め、鉄砲生産の工業団地を作ったと言われています。鉄砲本体の生産・販売だけでなく、火薬の輸入・生産・販売にも注力し、信長の「天下布武」を武器の面から支える存在となります。

堺区宿院町3-1 宗久の長男宗薫の屋敷跡と伝わる 武野紹鴎の屋敷跡から徒歩1分ほど
先見の明と実行力のあった宗久は信長に重用されますが、そのためかどうか、次の代の秀吉には、三宗匠の中では三番目の位置に甘んじることとなります。一代で豪商に上り詰めた宗久の手法はかなり強引な物もあったかと思われますが、その成功も失敗も子孫にしっかりと伝えたからでしょうか、長男の宗薫は紆余曲折はありますしたが、徳川家康支援を逆境の中でも貫きその子孫は幕臣として今井家を代々継いでいくことに成功するのです。

堺、臨江寺にある今井家の墓 正面奥の五輪塔が宗久の物
天下三宗匠であった千利休の子孫は、茶道の宗匠として、津田宗及は、子の代で商家をたたみ、今井宗久の子孫は、武家として幕末まで続き三者三様の生きざまを刻むことになります。


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