遣明船が帰ってきた際の堺の街の熱狂に関して以前触れました(29「黄金の日々」に至るまで1)が、貿易港としての堺の発展に大きく影響したのは、明との貿易だけではありません。琉球との通商も大きなウエイトを占めました。10年に1度程度しか受け付けられない遣明船に比べ、15世紀前半には、毎年のように畿内に琉球の貿易船(明への通商や使節派遣のために造られた進貢船といいます)がやってきました。しかし、1467年に応仁の乱が起こると国内の混乱のため途絶えてしまいます。そこで、堺の商人たちは海賊が跋扈する瀬戸内海を避け、土佐から薩摩、奄美の島々を伝って沖縄まで船をだすようになるのです。

万国津梁の鐘レプリカ
当時琉球は、中継貿易に注力し、首里城正殿前に1458年に掛けられた「万国津梁の鐘」には、「琉球国は南の海の良いところにあり、中国と日本の間にある蓬莱(ほうらい)の島で、船で万国の津梁(しんりょう)、いわば架け橋となって貿易を行い、国に宝物が満ちている」と記されています。中国明の物産はもちろん東南アジアの香辛料や薬種・染料が那覇の港にはたくさん積み上げられていたのです。薩摩の島津家に残されている1471年の文書には、「琉球渡海船のこと、堺辺からの近年の渡航は絶え間がない」と書かれています。
堺から沖縄那覇まで1400㌔あまり、多くの堺の人々が船に乗り琉球王国を目指しました。その中には、那覇に定住して役人になった者もいました。「堺の住人で俗名を川崎利兵衛という者は、堺を拠点に活動した貿易商人だと考えられ、1582年から茶道具を求めて堺→長崎→鹿児島→琉球と各地を転々とした後彼は求めた品を入手できず、そのまま琉球に滞在し王府に仕えた。そして1598年には東南アジアへの貿易業務を担う「南蛮才府」職に就いている。」(古琉球・那覇の「倭人」居留地と環シナ海世界 上里隆史 氏集の記述より)

三線 琉球から堺に伝わり16世紀後半には三味線に「進化」したと言われる
人の交流は、文化の交流です。那覇で暮らしたことのある堺の人間が三線の演奏を「カッコイイ!」と感じ習った演奏法とともに、三線を堺に持ち帰ったのでしょう。琉球の土産話とともに、三線を演奏して大いに堺の人たちを楽しませたのかも知れません。その演奏に感銘を受けた人(琵琶法師だと言われています)が何とか自分でも演奏したいと、手に入りにくいニシキヘビの皮から、猫か犬の革を張ったまがい物を作った・・のかも。環境に適応するのが進化だとすれば、三味線は、まさしく三線から堺という土地に合わせて進化した楽器と言えるのかも知れません。三味線は、江戸時代に全国に拡がり、地歌や小唄といった歌の伴奏だけでなく、浄瑠璃の語りの伴奏楽器として最も使われる邦楽器となっていったのです。


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