37 港の変遷 旧堺港の整備に寄せて

戦国堺の街
呂宋助左衛門の像が見下ろす旧堺港 左の桟橋は万博会場への観光船の発着場

上の写真は旧堺港、平日の昼下がり、向かいの岸壁には白いクルーザーやヨットが係留されていますが、湾内は静寂に包まれていました。望遠鏡を持つ呂宋(るそん)助左衛門の像と小さな湾を隔てて16メートルの台座の上に立つ乙姫像がただ静かな海面を見下ろしていました。

15世紀後半、遣明船が堺の港に帰ってきた時の街をあげての騒ぎの様子は、以前このブログでも触れましたが(29)、15世紀から17世紀にかけてこの港は堺の街の発展に大きな影響を与えました。明だけではなく、琉球、ルソン(フィリピン)、ホイアン(ベトナム)、アユタヤ(タイ)と堺や平野の豪商の船がアジアの港町を何艘も行き来していました。

堺の海は砂浜で水深が浅く、大きな船は、沖に泊めてはしけ舟で荷を運んだのではないかと言われています。帆を下した貿易船に水すましのようなはしけ舟が何十艘ととりついて荷を運んでいたのでしょう。多くの船頭や沖仲士の声が港に響き渡っていたに違いありません。

旧港は、水路で外海とつながっていて、灯台と派手な壁画が水路を彩っています。しかし壁画のような南蛮船が接岸することは残念ながら難しかったのです。として決して条件がよくなかった堺の港が「Sacay」としてヨーロッパでも紹介される程有名になったのは、都に近い地理的条件とともに、積極的に海外に出ていく進取の気風とそれを支える経済力(商売の資本力ばかりではなく、多くの傭兵を雇い街を自衛し、他の政治勢力から自立する資金力)があったからでしょう。

堺の繁栄を支えた貿易港は、江戸時代に入り大きく形、役割を変えていきます。1635年には幕府により海外への

元禄二年(1689)堺大絵図 戎島部分

渡航は禁じられました。1664年には浜の一部が隆起し、海に突き出た半島状の陸地が出現しました。戎さんの石像がでたことからこれを戎島と名付けました。さっそく戎島の岸には石堤を設け、燈籠堂(灯台)も作られ、町屋も建てられました。国内航路の港として整備されたのです。

1704年に堺の街の北につけ替えられた大和川が大量の土砂を堺の港にもたらすことになり、繰り返し海底に溜まった土砂を掻き出さなければ港が埋まってしまう事態になりました。堺の商人たちは、幕府と折衝しながら自腹を切って港を使えるように努力しますが、交易港としての魅力は失われていきました。

今年、旧堺港を見下ろす場所に大型ホテルが開業し、イルカと触れ合える施設もオープンしました。旧堺港の整備が進んでいます。旧堺港の南には、大正・昭和の初めに一大リゾートとして多くの観光客を集めたという大浜公園が隣接しています。堺の港を再び活気あるものにという思いは江戸時代から続く堺人の願いなのです。

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