堺には昔からお寺がたくさんあります。(参照12堺の富はどこへ行った)それに比べ神社は数えるほどしかありません。大坂夏の陣で街の大部分が焼け、再建された後の調査ですが、17世紀中ごろお寺は186あったと記されています。(堺鑑・当時の人口5万人前後を考えればよくこれだけの数の寺を維持できたものです)一方神社は、寺の鎮守等を除けば6社にしかすぎません。そのうち堺の産土神(うぶすながみ)としてあがめられているのは、南荘(大小路より南側)では開口神社、北荘では菅原神社で、大小路を挟んで線対称の位置(環濠で囲まれていた旧堺の真ん中)に鎮座しています。

開口神社の境内
開口神社は、堺が町となる以前に創建されました。5キロほど北にある住吉大社と深い関係があり、その外宮であったとも言われています。奈良時代には、行基(現在の堺市西区家原寺に生まれました)が念仏寺をその境内に建立しました。(神仏習合で神社とお寺が一体化することは明治時代以前は当たり前の姿でした。今でも開口神社は大寺さんと呼ばれています)堺は、開口神社を中心にした小さな集落から「東洋のヴェニス」といわれる日本を代表する街に発展してきたのです。

右菅原神社 明治以降合祀した奥正面薬師神社、左戎神社と稲荷神社
菅原神社ができたのは10世紀末、祭神が菅原道真であることから江戸時代までは天神社といわれていました。浄土真宗を広めた蓮如の末子・実従の日記「私心記」に面白い記事があります。「1544年7月25日天神社で能や踊の風流があり、金襴を着飾った風流は見る者の目を驚かした。」中世、華やかな衣装を着て群舞する風流踊り、堺の踊り子たちは、輸入品(たぶん)の金襴を纏って派手に踊ったのでしょう。これから黄金期を迎えようとする堺のキラキラした様子が伝わってきます。
神社に人が集まる時、初詣や祭り、宮参り等は、寺とは違い未来への希望やエネルギーを感じます。中世では、集落の中心には神社(産土神)があり、住民はみな氏子であり、氏子総代のような存在が祭りだけでなく、その集落の指針や住民間の調停をしていたことが多かったようです。時の支配者から「地下請(じげうけ)」(住民自ら税を徴収し納め、代わりに自治権を得る制度)を得た堺は、氏子総代的な「会合衆(かいごうしゅう)」を中心にして街の方針を決めていく制度を整えていきました。
1615年大坂夏の陣の前に堺は大坂方の放火により全焼してしまいます。終戦後堺は、徳川幕府によって再建されます。都市計画により、道路や街並みも以前とは大きく変わってしまいます。整然と碁盤の目状に道が整備され、多くの寺は移転や縮小を余儀なくされるのですが、開口神社と菅原神社は、以前の場所に本殿の向きもそのままで再建されたと発掘調査で判明しています。二つの神社は単に堺の産土神の信仰だけでなく、会合衆の寄り合いの場でもあったと想定されています。信仰と政治の中心の場は昔の姿で残してほしいという堺の人々の切なる願いを幕府の役人も無視できなかったのかも知れません。

サンフランシスコ・アジア美術館蔵「住吉祭礼図屏風」の一部 三重の塔がある開口神社が描かれている。塔の左奥で会食をしているのは会合衆か?大坂夏の陣以前の堺の様子を描いたものか?


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