39 黄金の日々に至るまで 6 河内鋳物師

戦国堺の産業
中世河内鋳物師(いもじ)の住んだ堺市美原区大保にある鍋宮大明神とその正面の大鍋

みはら歴史博物館前の梵鐘

河内(丹南)鋳物師(いもじ)私には一つのイメージがあります。鎌倉幕府が元寇に揺れていた頃、竹内街道に大きな荷車、荷台には、緑青が浮く前の新しい十円玉のようなブロンズに輝く梵鐘が括り付けられています。まだ大小路の周りにしか建物がなかった堺の町を通り抜け砂浜を逞しい男たちが荷車を引いていくのです。

12世紀から14世紀にかけて河内の丹南地区(現 堺市美原区)を中心に多くの鋳物師たちが梵鐘や鍋や釜を作っていました。その活気は、大保(だいほ)千軒と伝えられています。今も大保にある広国神社に鋳物師の祖神、鍋宮大明神が合祀されています。

発掘された羽釜の鋳型 
堺市立みはら歴史博物館展示

梵鐘は、船で運ばれたのではなく、納める寺の近くまで鋳物師が行き、現地で造ったことが多かったようですので最初に書いたようなことがあったかどうかわかりませんが、河内鋳物師が作った鍋や釜は、堺の港からたくさん運ばれていました。廻船鋳物師といわれる人たちは、鍋・釜だけでなく多くの商品を廻船をつかって全国的に交易していたと言われます。

全国を飛び回った河内鋳物師、商品を売るだけでなくその場で鋳造することもあったようです。鋳造は、溶解炉(こしき炉)で地金を溶かすだけでも多くの人手が必要です。各地で多くの人を雇った結果、その生産技術は色々な所に伝わり、新たな鋳物師を生みだしました。追従者が先駆者を駆逐することは現在でもよくあることですが、地方で鋳造が盛んになるにつれ、河内鋳物師たちは、全国に分散していったと言われています。技術の優位性が崩れると、良質の鋳物砂が多く、鋳物生産に有利だった河内にいても仕事が取れなくなったのです。

四国88カ所の38番の札所 高知の金剛福寺にある多宝塔に刻まれた銘 堺市立みはら歴史博物館展示

竹内街道一本で行ける堺は、河内鋳物師にとって馴染み深い街です。作った鍋釜を船に積み込むにも、材料の鉄や銅を仕入れるにも、また各地の情報を仕入れるにも便利な堺に移住してきた鋳物師が多くいたようです。左の写真は、高知県のお寺に残された銘です。そこには「堺住山川右衛門尉助頼」とあります。

時代はくだり戦国期、堺のすぐ東側にあたる五個荘には、鋳物師、鍛冶を集めた金属関係の「工業団地」ができました。織田信長から命を受けた今井宗久(参照32)が代官を務めたと言われています。堺は商売の街だけではなく、工業の街でもあったと(参照36)このブログで書いてきましたが、堺に住みついた河内鋳物師たちは、その基礎を作ってくれたのです。

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