堺の街はいつごろできたのでしょうか?平安時代の貴族の歌集に以下のような和歌の題が書かれています。堺の地名の初見といわれています。
九月ばかりさかひといふ所にしほゆあみにおはしたりけるにひめきみの御もとに
百人一首にも歌が残るこの貴族は、道長・頼通という藤原氏の全盛時代に活躍しました。堺はその頃から、京の貴族に”潮湯浴”で知られていました。堺の浜からくみ上げた海水を、大きな釜で炊き上げて湯舟に満たしていたのでしょうか。潮湯浴は、平安時代だけでなく、その後も堺の名物になっていきます。
時代はぐっと下り、秀吉が京に聚楽第を建てた翌年(1588年)に書かれた”石田正継塩風呂定書”が残されています。堺の代官であった石田正継(石田三成の父)が、潮湯浴のルールや料金を定めた文書です。(堺市博物館研究報告第32号) また、秀吉も堺で潮湯浴をしたとも言われています。
堺の中心を走る大小路(この道が和泉と摂津の国のさかいであったために堺の地名が生まれたと言われています)の道沿いに熊野小学校があります。この小学校、くまのではなく、ゆやと読みます。戦国堺から江戸にかけて、この近辺には潮湯浴をさせる湯屋が多かったためゆやという地名となったという説があります。
さて、この潮湯浴、現在はページ頭の写真の湊潮湯でしか体験できません。昭和30年代から、堺の浜は埋め立てられ、大きな工場が建ち並び、海はかなり遠くなりました。そこで、湊潮湯では、埋め立て地の向こうまでパイプを伸ばし、海水をくみ取っているとの説明書きがありました。
私も潮湯を満たした浴槽(露天風呂もありました)につかりました。寒風の中を来たためか、始め肌にしみるような感じはしましたが、結局気持ちよく、ずいぶん長湯してしまいました。
戦国、安土桃山の頃の堺は、商業都市の面と、堺の富を守るたくさんの傭兵が住まう要塞都市の面と鉄砲を造る職人や、大きな釜などを造る職人(鋳物師)も多い工業都市の面もありました。浜があり、魚の取引も盛んな漁師町の面、貿易港ですので当然港湾都市の面もあったでしょう。
堺で働く多くの商人・傭兵・労働者が、ゆや町のあたりでその日の汗を流し、明日の仕事に備えていたのかも知れません。
なお、湊潮湯の入浴料は大人520円、追加料金が必要ですが、サウナもあります。もちろん、海水でない湯舟もありますよ。


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