44 堺と西陣織

戦国堺の産業
西陣織の帯 西陣織会館

家の間に佇む山名宗全邸宅跡碑  応仁の乱で西軍がこの付近に陣をはり一帯が「西陣」と呼ばれるようになったという

「なれや知る 都は野辺の夕雲雀 あがるを見ても 落つる涙は」と詠まれた応仁の乱での京の都は、荒廃しました。西軍の陣の付近には京に都が置かれた頃から、機織り職人がまとまって暮らしていましたが、多くは乱を避け堺に避難しました。乱勃発から8年後、堺を海嘯(かいしょう)が襲います。台風による高波かと思われますが、せっかく避難してきた職人たちも大きな被害を被ったと記録されています。(参照 23)

しかし、悪い事ばかりではありませんでした。堺への移住は、中国(明)から輸入された織物に触れる機会を増やし、進んだ織物の技術を取り入れていくことにつながったのです。応仁の乱が終わると機織り職人たちは京に戻ります。西陣織のスタートです。また京の職人たちが去っても、その影響を受け堺でも金糸、銀糸、色糸をふんだんに織り込んだ唐織や錦といった高級な織物が生産されるようになり、安土桃山時代の貴婦人や高級武士たちを彩りました。

空引機模型(西陣織会館)と機織り職人が京から移住したといわれる綾之町と錦之町

京の職人たちが避難した先は、堺の北側の海岸近くだったと言われています。そのため海嘯の被害も大きかったのでしょう。彼らが去った後もその地で機織りは続き、現在でも町名として残っています。

今回華麗な西陣織を調べてみて、繭から生糸を紡ぐことから細かい織りまでの膨大な手間に関心するとともに、こうした高価な物を購入できなかった一般庶民の衣服も気になりました。「おあむ物語」という江戸初期、関ケ原の合戦の際大垣城に籠城したという老尼の筆録が岩波文庫から出版されています。彼女は少女時代の着ていた物をこう回想しています。

さて、衣類もなく、おれが十三の時手作のはなぞめの帷子(かたびら)一つあるよりほかにはなかりし。そのひとつのかたびらを十七の年まで着たるによってすねが出て、難儀にあった。せめて、すねのかくれるほどの帷子ひとつほしやとおもふた。

彼女の父親は石田三成の家臣で300石取りの武士であったと言われていますので決して貧しい家庭ではなかったと思われますが、着た切り雀の少女時代を過ごしています。何年も着ていたとなるとたぶん丈夫な麻で織った裏地のない帷子だったのでしょう。近くで咲いている花で素朴な文様が染められていたのかもしれません。これ一枚で冬はどうしていたのかと心配になります。

絹か苧麻(ちょま)のどちらかが素材だった日本の着物は、15世紀末から木綿が日本でも栽培されるようになり、紡ぎやすさ、染色のしやすさ、そして着心地のよさで急速に広がっていきます。麻や絹もその素材の長所を生かし、織りや染めだけでなく、刺繍・摺箔といった技法を発達させて現代の着物へと進化していくのです。

 

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