京の着倒れ、大阪の食い倒れは今でもよく聞くフレーズです。江戸時代からこうした言い回しがあって各都市で何にお金をよく使うのかを言い表してきました。堺は、「建て倒れ」と言われていたそうです。豪商が多く、建物にお金をかける人が多かったからでしょうか。

大阪歴史博物館蔵 1568年9月(信長軍の堺包囲)の堺を想定復元した模型 (縮尺1/25)
では「黄金の日々」の頃の堺の街はどうだったのでしょう?上の写真を見てみると板屋根に石を置いた屋根が目立ちます。屋根に板を葺き直している家も見えます。この時代は限られた寺院以外はほぼ板屋根の家が多かったようです。そのため一旦火災が起こると大きな被害がでました。しかし、こうした板屋根の街は時代の先端だったのです。秀吉による小田原征伐の前、秀吉に使者を遣わせた北条氏直が、都の町屋の屋根がことごとく板葺きだと聞き、街道沿いの草葺きや藁葺きの屋根を板葺きに変えさせたという話が残っています。

大鋸(おが) 三十二番職人歌合
板葺きが一般的になったのは、中国から大鋸という二人引きの鋸が伝わったためです。それまでは、くさびやのみで材木を割っていたものを大鋸で厚さをそろえ大量に作れるようになったのです。(15世紀初頭には大鋸が確認できる)応永の乱(1399年 参照31)の際大内義弘に堺に陣を敷くことを進言した部下は、堺は「兵糧材木に富んでいる」と言っています。その進言を採用した義弘はすごい量の材木や板を使って堺全体を要塞化します。以前にも引用しましたが、
材木を集め、数百人の番匠(大工)を以て (中略) 勢楼(敵陣偵察のためのやぐら)四十八、箭櫓(上から矢を射る矢倉)一千七百 東西南北合わせて十六丈(1700mくらいか) 応永記
安土桃山時代になり少し世の中が落ち着くと、堺では「市中の山居」と称して茶室を建てることが流行します。(参照16)こうしたことも、豊富な材木と板があったればこそだつたのかもしれません。

「堺・博多の商人」から

筏士(七十一番歌合)と川並鳶の像(東京都江東区木場2丁目公園)
当時堺の海岸には土佐や紀州から運んできた材木の集積地があり、材木を扱う材木屋が集まっていました。その痕跡は材木町の名で残っています。江戸幕府ができ、街づくりに必要な材木や番匠や筏士が全国から集められました。当然堺からも行ったことでしょう。堺の材木町で羽振りをきかせていた筏士たちの子孫たちが江戸木場の鯔背(いなせ)な川並鳶になっていったのかもしれません。


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