47 堺の熊野街道 熱き信仰の道

堺の街道
街道図は、堺市のWebサイト「旧街道・道」より

堺を通る街道については、西高野街道紀州街道に関して触れてきました。今回は、熊野街道から当時の宗教事情をみていきたいと思います。西高野街道が高野山に参拝するための信仰の道として整備されたように、熊野街道もまた、熊野三山に至る信仰の道でした。熊野の山々や滝、巨石、巨木、山深い熊野の自然を崇める心が平安中期からの浄土信仰の高まりと結びつき、室町期には「蟻の熊野詣」といわれるくらいに多くの人々がこの街道を行き交いました。後白河法皇などは都合34回も参詣したと言われています。人の往来が多くなると街道には王子社(熊野権現の末社)がまつられていきます。15世紀後半には、大坂から熊野三山の中にまででき、九十九王子と呼ばれていました。堺市内には、境王子と大鳥居王子の二つがありました。

四天王寺の石鳥居 奥には西大門(極楽門)と五重塔 春と秋の彼岸の中日に大阪湾に沈む夕日の方向に向けて建てられました

都人は、淀川を船でくだり、八軒屋(天満橋)で下りて南に歩き始めるのですが、まず四天王寺で足を止めました。熊野街道に面してずんぐりむっくりした鳥居(重要文化財)をくぐるのです。この鳥居は、花崗岩製で、1294年に建てられ、「極楽の東門」という言葉の鉄文字の額が掲げられています。(釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心)旅人は、大阪湾に沈む夕日が美しいこの場所で西方にあるという極楽浄土を夢想したのです。この鳥居は長くこうした人々の祈る姿を見続けているのです。(石鳥居は1538年に地震で倒壊しますが、再建されました)

四天王寺で浄土を夢見た旅人は、住吉神社・方違神社とたどり堺の街に入ります。堺では海水を沸かした潮湯で旅の汚れを落とした者も多かったことでしょう。そして、熊野三山までの厳しい道のりに向けて英気を養い、堺の南端、山之口橋を渡っていったのです。

熊野参詣の盛り上がりが象徴するように、平安末期から安土桃山期にかけては特に宗教的に熱い時代でした。今に続く新しい宗派が次々と生まれ、宗派同士の争いも数多くありました。キリスト教も伝来し、多くの信者を獲得しました。信長の天下統一の最大の障壁となったのは、15世紀末から爆発的に広まった浄土真宗の本山、石山本願寺です。堺はそうした時代の中心で京から追い払われた日蓮宗徒一時的な中心地となったり、10万人とも言われる一向一揆に街が襲われたり、石山本願寺と深い関係を持ったり、ザビエルや多くの宣教師が訪れ、教会ができたりと、堺の持つ経済力が多くの宗派を呼び寄せました。現在環濠内には多くの寺社が軒を連ねています。(参照12)こうした風景も私には「黄金の日々のかけら」に見えるのです。

堺の寺院の中でも最大の面積を誇る南宗寺

 

 

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