最初の絵はモンタヌスというオランダ人が1669年に出版した「日本誌」で紹介されている堺の港です。モンタヌスは日本に来たことがありませんでしたが、イエズス会士の報告やオランダ使節の江戸参府紀行などをもとに書きました。この「日本誌」が当時画期的だったのは数多くの挿絵が添えられていたことでした。

比叡山の観音像 モンタヌス「日本誌」より
左の観音像、千手観音かもしれませんが・・・またそれを礼拝する日本人にもなにか強い違和感を感じてしまいます。来日したことのないモンタヌスが挿絵画家に自分の想像を語り、それを聞いて想像をふくらました画家も・・・と二重にふくらんだ挿絵なのかも知れません。
というわけで、最初の港の挿絵もこれまた変なのですが、これの基になった資料があるのです。桶狭間の戦いがあった次の年(1562年)、ガスパル・ヴィレラというイエズス会の宣教師の堺の出来事の報告書です。その頃の堺はヴィレラによれば、「日本全国において、この堺の市ほど安全な場所はなく、他の国々にどれほど騒乱が起きようとも、当地においては皆無である。」と平和な堺を報告しています。その堺で彼は日本人たちの奇妙な自殺の姿を目撃するのです。
彼らは船に乗り・・・各自大きな石を背中に縛り付け、よりいっそう迅速に天国に達するように袂を石で満たす。私が目撃した人は七人の同行者を伴っていた。彼らが乗船し海に身を投げる際、彼らの喜悦が余りにも大きかったので私はたいそう驚嘆した。 イエズス会日本報告集第三期第2巻
これは当時補陀落渡海といわれた一種の宗教行事でした。ヴィレラだけでなく、ルイス・フロイス(ヴィレラの後任として堺にやってきました)を始め何人もの宣教師が各地の補陀落渡海を記録に残しています。もちろん自殺を禁じるキリスト教の宣教師たちなのでこうした行為を否定的にとらえています。ヴィレラは、「日本人が偽りの天国に行く方法」としてこの補陀落渡海を記録しているのです。南の海のかなたにあるという補陀落(観音菩薩の浄土)に向けて帰ることのない小舟での航海、平安時代から記録されていますが、ヴィレラが見た頃には、直前に宴会をし、少し沖に出て海に飛び込むという手っ取り早い方法になったようです。
よりよく生きるためではなく、「自殺」に至る信仰とはなんなのでしょう。本人は「宗教的な悦楽」を感じながら死ぬことができるのかもしれませんが、周りの人たちはどうだったのでしょう。現代も信者の家族を不幸に追い込んだ宗教団体が問題になっていますが、人の心に宿る信仰心の不可思議さは社会の進歩や平和とはしっかりリンクしていないようです。

旧堺港を見守る龍女神像
第5回内国勧業博覧会時に制作された
そんな補陀落を夢見て飛び込んだ人々を救いあげるように旧堺港を龍女神が見下ろしていました。


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