『探求 黄金の日々堺』への投稿も50回を迎えました。2024年の1月にスタートして1年11カ月、最初4カ月は月に3回投稿と頑張りましたが、それ以降は月2回ペースで続けてきました。それらを振り返り、「黄金の日日」の堺はどんな街だったのか改めて考えてみたいと思います。

堺市博物館蔵 南蛮屏風左隻
まず第1に瀬戸内、そして紀淡海峡を通って太平洋につながる港町としての堺です。遣明船の出航をバネにして色々な物品が流れ込む貿易港に成長していきます。その成長期、初めて遣明船が堺の港に帰ってきた時の街の様子を堺に住んでいた禅僧が記録しています。「南北歓声 喧甚云人声如雷喧」南北とは、堺の南庄と北庄を表し街全体ということです。歓声が甚(はなは)だ喧(やかま)しいく街全体に響き渡っていたのかもしれません。遣明船の初帰還に興奮している街の様子が伝わってきます。これ以降遣明船や琉球船の来航がより盛んになり海外にも知られる港町に発展していきます。(残念ながら南蛮屏風のような南蛮船は来航しなかったようです)「堺という町には、裕福な商人が沢山住んでいる。そして他の如何なる日本の地方も及ばない位に、金銀が流れ込んでいる」と書いたフランシスコ・ザビエルは期待を持って1550年12月堺に来たのです。

2024堺刃物まつりにて 古式鍛錬の実演
第2に全国有数の工業都市という側面です。鉄砲の生産はつとに有名ですが、当時輸入するしかなかった硝石(黒色火薬の元)や鉛(弾丸に利用)を手に入れやすい貿易港としての立地を生かして一大産地に成長していきます。その流れは戦が収まった江戸期には、包丁鍛冶としてつながっていき、現在もプロが持つ包丁のかなりのシェアーを占める堺包丁に発展していきます。「物の始まりなんでも堺」と言われるように中国や西洋から港町堺に伝来した物が、堺の職人によって作られ日本中に広まっていった物が数多くあります。

堺の環濠跡 内川と土井川の合流部分
第3に、政治的・軍事的に追い詰められた人々が逃げ込むシェルターとしての役割を堺は持っていました。都を追われたイエズス会の宣教師や、延暦寺に攻撃を受けた法華宗徒、応仁の乱で被災した京の機織り職人たち、三好長慶や松永弾正といった武将も一時堺に身をかくしました。自身も堺に避難してきた宣教師カスパル・ビィレラは、「日本全国において、この堺の市ほど安全な場所はなく、他の国々にどれほど騒乱が起きようとも、当地においては皆無である。」と書いています。経済力をつけた商人たちが献金や多数の浪人たちを傭兵とした軍事力、環濠を回らせた防衛力を背景に「自立」した「自由都市」の側面を持っていたからこそ色々な人々を受け入れられたのです。

発掘された志野茶碗 堺市文化財課蔵
最後に、港町として、また工業都市として経済力をつけた堺は、色々な人々を新しい文化や宗教を受け入れ、熟成させ、そして発信していく街になっていきました。その最大の物が茶の湯になるでしょうか。1615年火を放たれて焼け落ちた堺の街、現在の街の下からは焼け落ちた「黄金の日々」の茶道具が数多く出土しています。


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