54 秀吉と堺 2 小西一族

堺をめぐる人々
小西行長像 熊本県宇土市 宇土城跡

秀吉と堺の関係は、深く多岐にわたっていますが、今回は秀吉が重用した小西一族を中心に見ていきます。秀吉が重く用いた堺人には、千利休を筆頭に津田宗及・今井宗久など茶頭が思い浮かびますが、武将としては、熊本の南半分14万6千石を領した小西行長が有名です。小西行長は、自身の馬印に薬袋を掲げ、日本軍の先鋒として朝鮮の地で奮戦しましたが、元々堺にあった小西の家は薬屋を営んでい

大道(紀州街道)沿いにある屋敷跡の碑

たと言われます。父立佐は、京都に移住し薬を商いながら、「その地における最古の改宗者」と宣教師のルイス・フロイスに記されているようにジュウチンという洗礼名を持つキリシタンとして織田信長にも謁見しています。フロイスは「日本史」で小西立佐をこう評しています。『きわめて思慮に富み、交渉に長けていたので、その人柄は関白殿(秀吉)から大いに愛好され、重んじられ、彼は関白殿から要職を授けられていた。』そして『彼に室(津)と小豆島の支配を委ねたばかりか、彼の郷里である堺の奉行に起用した。』

立佐は、京にあっても堺との関係を重視し、津田宗及の茶会(参照5)にも参加し、堺のキリシタンの中心的な存在であった日比屋了慶婚姻させています。

秀吉は、全国統一に向けて、紀州雑賀衆、四国長曾我部、九州島津へと遠征します。そして最後は、朝鮮にまで踏み出した文禄・慶長の役、立佐とその子如清は堺奉行として、兵站基地となつた堺でその中心を担います。フロイスの日本史には、秀吉が「堺の代官ジュウチン立佐に対し、米を満載した船舶を率いて下関に赴き、そこから軍勢の補給を采配するように」と命じたと書かれています。そうした米を食べて、次男の行長(洗礼名アゴスチイノ)は九州で、また朝鮮の地で奮戦したのでしょう。バテレン追放令で役職を辞したりしていますが、小西立佐への秀吉の信頼は続き、文禄の役にあたっては、財務の仕事を任され肥前名護屋城まで行きました。そこで発病し海路堺に戻り、最後は、京で亡くなりました。こうした職務のかたわら、立佐は、堺にライ病の病院を設立したと言われています。

菅原神社の楼門に置かれている小西行長手植えの傘松の幹

行長は、バテレン追放令で職を追われた教徒たちを家臣として多く召し抱えます。朝鮮の地では、加藤清正と首都ソウルに一番乗りを競い奮戦しています。1600年、関ケ原の戦いで敗れた小西行長は、盟友の石田三成(三成の兄は立佐とともに堺奉行を務めていました)とともに京で刑死してしまいます。兄の如清も堺で捕らえられ、瀬戸内の海上交通を活用して豊臣政権を支え、文禄の役では、停戦のために北京にまで使節を送った小西一族は歴史から姿を消してしまうのです。

 

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