大河ドラマ「豊臣兄弟」記念の「堺と秀吉」第3弾、まず上の写真はChatGTPで羽柴の姓の頃の秀吉像を作成してみました。最初私のイメージよりかなりハンサムに仕上がっていたので、「猿顔」に寄せるリクエストを二回してできあがった物です。 さて秀吉と堺の関係は、天下人になってからではありません。信長の部下として姉川の戦い(1570年)に参加した秀吉が、今井宗久に送った手紙が残されています。合戦の報告と火薬を求める内容です。当時堺を代表する商人で信長のバックアップを受け代官的な仕事をしていた宗久は、信長軍に大量の鉄砲、火薬を供給していたのです。

堺市博物館 「豊臣秀吉と堺」から
姉川の戦いから11年後、中国地方の司令官に出世した秀吉は、数日堺で過ごし、多くの堺商人と交流します。秀吉45歳、本能寺の変の1年前のことです。上の手紙は、秀吉から今井宗久に堺での逗留の際茶道具を拝見したことの礼を述べたものです。右側のひらがなの部分は自分の手で書いたもので読みにくいでしょうと自虐的な文章を付け加えています。かなり宗久と親しくなっているように思えます。

堺の地下から掘り出された茶碗 さかい利晶の杜
秀吉はこの滞在中に、津田宗及も訪ねています。天王寺屋会記(参照:5)には、5月4日朝秀吉を主客とした茶会の様子を記しています。その茶会は、宗及自身が所有する茶道具だけでなく、他の堺商人たちも自分の茶道具を持ち寄って秀吉に披露するにぎやかな会だったようです。秀吉は、天下を取る前から堺商人たちと親しく付き合っていました。津田宗及は、秀吉の堺訪問の3年前、当時三木城を囲んでいた秀吉のもとを訪れ、茶会を開いてもらっています。秀吉はこうした戦の場にも、茶道具や絵を持っていたようで宗及は三木城を包囲するために築かれた付城で開かれた茶会の様子を記録しています。出された料理(生白鳥汁)に「白鳥いきたるをころし候て、汁にせられ候、此鳥は播州之日池へをり候」と当時高級食材だったという白鳥をわざわざ捕まえて料理してくれた感動を記しています。秀吉だけではありませんが、信長政権の高級幹部たちに堺商人たちはしっかりと食い込んでいたのです。天王寺屋会記には、明智光秀との茶会の記録も残されています。茶会は、したたかに人間関係を構築していた堺商人たちの戦略ツールでもあったのです。

コメント