阪堺電車が走る大道沿いにザビエル公園はあります。旧環濠内では最も広い公園で小さい子でもたちや、犬の散歩、午後には近くの泉陽高校の学生たちで賑やかな公園です。

ザビエル芳躅(ほうたく)
ザビエル公園内
ザビエルの名を冠するのは、1551年堺に上陸したフランシスコ・ザビエルがこの地にあった日比屋了慶の家で宿泊したと言われているからです。(諸説あり)ザビエルが長旅の休息をとったおかげで公園には、「東と西の接点」というオブジェも
置かれています。とにかくこの公園はやたらとたくさんの記念碑があります。大きく黒く目立つ「鐵砲之碑」、小さな今はない寺院の「慈眼院之跡」、屏風をもとにした「住吉祭礼図屏風」は左右対の碑になっています。新しいところでは、旧堺中学(現三国ヶ丘高校)出身の安西冬衛の詩碑があります。この公園は、環濠内にある宿命上中世からの堺の歴史を背負っているのでしょう。
せっかくなので日比屋に関しても見てみましょう。日比屋は、遣明船にもかかわった名門の堺商人です。また400人あまりの傭兵を動員した記録もあることからかなりの経済力も持った豪商であったのでしょう。了慶自身は、ザビエルの後も訪れるイエズス会宣教師をもてなし、自身の屋敷の一部を教会として近隣のキリシタンに開放し、家族全員が洗礼を受け熱心なキリシタンになったことがルイス・フロイスの日本史等にも詳しく書かれています。

住𠮷祭礼図屏風 堺博物館 4カ所の3階建てが見える
日々屋了慶の屋敷は、三階建てだったとフロイスは記していますが、当時堺には三階建ての屋敷がいくつかあったようです。左の屏風絵の行列が行進する堺の街にも三階建てと思われる建物がいくつか描かれています。この公園には475年前、三階建ての日比屋の屋敷が建っていたのだと思うと足裏からむずむずと盛り上がる感覚を感じてしまいます。ここでは、クリスチャンネームで夫のディオゴ、妻のイネス、長女のモニカ、次女サビナ、長男のヴィセンテ、三女アガタたちが普通に生活し、商売をしていました。了慶(ディオゴ)は茶人でもあり、自身の茶室も持ち、宣教師たちにも、茶をふるまっていたのです。フロイスの日本史にその様子が感動を込めて紹介されています。
部屋の片側には彼らの習わしによって一種の戸棚があり、そのすぐ傍には周囲が一ヴィラ(1.1m)の黒い粘土でできた炉がありました。そこには真黒の粘土製であるのに、あたかも黒玉のようにきわめて澄んだ鏡に似た非常な輝きを帯びているので不思議に思える品でした。その上に感じのよい形の鉄釜が、非常に優美な三脚(五徳)にかかっいてました。灼熱した炭火が置かれている炭は、挽いて美しく篩った卵の殻でできているように思われました。すべては清潔できちんと整っており、言語に絶するものがあります。
日比屋了慶とその家族はみな、イエズス会の宣教師によってキリシタンになりましたが、また宣教師たちも日本の茶を学び、日本人との関係づくりに活かしていくようになります。以前にもふれましたが(参照16)、通辞であったジョアン・ロドリゲスが書いた「日本教会史」には茶の歴史から心得、その作法まで詳しく述べられています。この公園の地はそうした東西文化の相互作用を起こした地だったのです。

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