57 えらい武家とのつきあい方

戦国堺の街
三好家の軍勢が進駐していたという海船政所跡(北旅籠町西)近隣の町屋・店舗31軒で開催している「ひな飾りめぐり」3/3~4/3

「堺幕府」という言葉をご存じですか?1527年から1532年まで堺にあった「幕府」です。教科書的には、室町幕府

顕本寺正面 案内板は拡大編集

12代足利義晴の時代ですが、義晴は政争に敗れ近江に逃げていました。それを助ける管領の細川家も分裂してしまい、細川晴元が将軍義晴の弟義維(よしつな)を擁立して京ではなく堺に本拠地を置いて活動したのが「堺幕府」です。その案内板は、顕本寺の門前に建てられていますが、このお寺は幕府の中心武将三好元長が切腹した寺として知られています。足利義維がいたのは寺のすぐ近くにあったと言われる引接寺です。どちらも環濠内の街の内にあったのです。

少林寺小学校のフェンス前の引接寺跡の看板             戦国期より移転し明治期に廃寺

1399年堺の街を城塞化して足利義満に対抗しようとした大内義弘(参照31)の場合もそうですが、「堺幕府」も細川晴元の裏切りにより三好元長が切腹する際には大勢の一向一揆の群衆が堺に攻め入り街は大きな被害を受けてしまいます。有力武将との付き合いはメリットもありますが、場合によっては大きなダメージを被ります。「堺幕府」以降堺の街は武将たちとのつきあい方を大きく変えていきます。

三好長慶没後462年 父親が切腹した顕本寺には大河ドラマ化を望むのぼりがたっていた

例えば元長の息子三好長慶(参照6)が堺で軍勢に包囲された際には、街で保護し、対抗勢力と交渉して救っていますし(1546年)、長慶の死後三好家が分裂して松永長秀(参照8)が三好三人衆から逃れてきた際(1566年)には、匿って三好三人衆の軍勢を撤退させています。(三人衆の屋敷は堺の街の中にあったとルイズ・フロイスは「日本史」に書いています)軍事勢力を持った武家に単に従うのではなく(税や年貢はある程度負担するとしても)、16世紀半ばから、街として自立した動きをするようになります。それだけ堺という街の力(経済力・自衛力・自立意識)が大きくなってきた証だと思います。そしてそれが最も現れたのが1568年織田信長の上洛時の堺への2万貫の矢銭要求に対しての拒絶でしょう。堺の経済力・自衛力が高まってきた時に、世は天下統一へ流れ始めたのです。

顕本寺でおこなわれた元長忌 2024.6.16

 

 

 

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