34 「黄金の日々」に至るまで 4 一休宗純その①

堺をめぐる人々
酬恩庵にある一休さん像

一休さんと言えばとんち好きの小僧という愛らしいイメージですが、これは昭和50年から7年近く続いたアニメの影響です。このアニメは海外にも輸出され以前は世界で最も有名な日本人とも言われていました。

一休は、弟子の書いた年譜によると応仁の乱を挟んで都合5回堺を訪れています。最後の訪問は八十を越えてからになります。壮年期に訪れた際には、長く真っ赤な鞘の刀を差して街を練り歩いたという逸話が残っています。まるで後の世の傾奇者の姿ですが、街の人は一休にそんな刀を差している理由を質します。「これは木剣で人を切ることはできない。世に横行する僧侶も私が携える木剣と同じで、見掛け倒しで、ここという時、何の役にも立たない代物である。」

一休宗純像 奈良国立博物館蔵 一休54歳時

この逸話は有名で、残されている一休の肖像画には横に長い朱鞘の太刀が立てかけられているものが多くあります。臨済宗の僧侶であった一休の兄弟子、その弟子たちも堺で禅の教えを広めていました。修行による自力救済を重視する禅宗は、波頭を自力で越えて商売をする貿易商と相性がよかったのか、多くの信者を得ます。優しい形で禅を売り込む兄弟子たちの布教のやり方に我慢できなかったと言われています。裕福であった堺の街には禅宗だけでなく色々な宗派の僧侶たちが競うように布教に訪れていました。全国や海外からの物品や情報も集まる堺の商人たちは決して扱いやすい存在ではなかったようです。堺町衆との絶交宣言も一休はしています。しかし、奇行も多く、権威に縛られず歯に衣をきせない一休への支持者も確実に増えていきました。現在は残っていませんが、堺の街にも一休派のお寺がいくつかできたようです。七十を過ぎてからも三回堺を訪れている一休は、応仁の乱で焼失した京の大徳寺の再興を目指していました。

大徳寺の復興は、一休存命中はかないませんでしたが、その後も続けられました。一休のパトロンとして豪商の尾和宗臨が知られていますが、一休が亡くなった酬恩庵には、寄付金の記録が残されていて、堺の多くの町衆が寄付を寄せています。

一休禅師墓所 1481年没一休は後小松天皇の皇子で墓所は宮内庁が管理している 門扉に菊花の章あり

一休の死後、堺と大徳寺の関係はより深まり、三好長慶が大徳寺派の寺院として南宗寺を堺に創建しました。また法名として、千宗易(利休)、天王寺屋宗及今井宗久など「宗」の字が付く堺人が多いのは大徳寺からもらった系字です。一休も幼名千菊丸、六歳でお寺に入り周建と名乗り、成長して宗純という系字を冠した戒名を得、悟りを開いて一休の道号を得たのです。子どもの頃は正しくは一休さんでなく周建さんだったのです。 次に続く

 

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