前回に引き続いて一休から話を始めたいと思います。八十八歳までの長寿を得た一休の肖像画は多数残されていますが、最も有名な物は上にあげた六十歳代の東京国立博物館蔵の物でしょう。伸びた髪、無精ひげ、ぎょろりとにらんでいるような目、アニメの一休さんのかわいさはかけらもなく、近寄りがたいおっさん感があふれ出ています。弟子がつけた賛(絵につけた文)には「一休の前で禅を語れる者がいるか」といった挑戦的な一休の言葉が書かれています。一休の残した「狂雲集」には、娼婦とのかかわりや、晩年愛した盲目の女性との愛欲の生活を現した物も残されています。

大徳寺真珠庵 堺の豪商尾和宋臨が一休の為に創設
僧の決まりを破り、それを隠すのではなく堂々と詩で公表する、兄弟子を口汚くののしり、ボロボロの衣で奇妙な物を持ち街を徘徊する。近寄り難い人物だと思われますが、何故か多くの人に慕われているのです。その証拠に前回書いたように堺の人々は大徳寺の復興のためにお金を出し続けていますし、世阿弥の娘婿の金春禅竹や、連歌の柴屋軒宋長といった当時の有名人も深く一休に帰依しています。司馬遼太郎も、街道をゆくの「大徳寺散歩」で「一休というのは会ってみなければわからない男といえそうである。」と人物分析の匙を投げています。

大徳寺 金毛閣
堺人の大徳寺への熱は、一休亡き後も中々冷めません。一休かせ亡くなり100年近くたっても、津田宗及は、息子を大徳寺に預け、その子(江月宗玩)は、大徳寺の156世住持になりました。千利休は、大徳寺で長く禅の修行を積み、侘茶の精神に活かしていきます。それだけでなく多額のお金を寄進して金毛閣という大徳寺の門の二階部分を増築するのです。鮮やかな紅色に塗られた金毛閣は、落ち着いた雰囲気の大徳寺の建物の中では異質に見えます。
利休の大徳寺への深い帰依から作られた金毛閣、しかしこの門に置かれた利休の像がきっかけとなり、利休は、秀吉から切腹を命じられてしまいます。切腹の理由は諸説あり、色々な小説にもあつかわれていますが、こうした血なまぐさい事件にもかかわらず堺人の大徳寺への傾斜は江戸時代にも続いていくのです。
最後に一休の残した道歌を一首
世の中は食うて稼いで寝て起きて
さてそのあとは死ぬるばかりぞ


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