戦国堺の街は、貿易で財をなした商人の街というイメージが強いですが、全国の大名や国衆・土豪たちに大量の鉄砲を供給した職人たちも多く住んでいました。(関連 11鉄砲から包丁へ)その鉄砲が戦の形を変え、資本力のある大名が多量の鉄砲を使い、周囲を従えていきました。そして最後に勝ち残ったのが豊臣秀吉です。秀吉は、大坂に城を築き、堺の商人を多く呼び集めました。また、大きなチャンスを求めて堺から店を移した商人も多かったことでしょう。大坂へ移住した堺の商人たちは堺に続く道筋に店を建てました。その道は堺筋と呼ばれ御堂筋が拡張されるまでは大阪のメインストリートになりました。多くの有力な商人が大坂に移ると堺はより工業都市的な要素が強くなったのです。それは現在にも受け継がれています。
江戸時代、戦国期に比べてニーズは低くなりましたが、鉄砲職人たちは鉄砲を作り続けました。明治4年に記された「御触御達控」では堺で17軒の鉄砲鍛冶が残っていまます。文明開化の世に火縄銃を造っていた彼らはどうしたのでしょう?
鉄のパイプ(鋼管)はどう造られるかご存じですか?現在では工作機械で鉄板をロール成形して電気溶接で留めて造られますが、工作機械がなかった時代には、熱した鉄の板(瓦金)をハンマーで叩いて鉄棒(真金)に巻き付けていったのです。鉄砲鍛冶は、このパイプの強度を増すためにさらに鉄の板をパイプに巻き付けていきます。(葛巻)明治期、鋼管は、鉄砲鍛冶の技術を使って造られました。

明治の堺の街を走った年式1892年のアメリカ製の自転車 シマノ自転車博物館蔵
左の写真は、日本で自転車が出始めた頃走っていた物です。アメリカ製で非常に高価だったため、レンタルが多かったようです。自転車の運転に慣れない方も多く、よくぶつかって修理が必要になりました。(展示の自転車にはブレーキがない!)それを直したのが鉄砲鍛冶の技術を持った職人だったのです。

シマノ自転車ミュージアム1Fに展示されている「堺と自転車のあゆみ」から
戦国期から代々受け継がれてきた鉄砲鍛冶の技術が、自転車という新たな物に応用されそれが堺の一大産業と成長していったなんて大いなるロマンだと思うのは私だけでしょうか?
シマノ自転車博物館の1階には自転車生産技術のべースとなった堺製の火縄銃が展示されています。自転車・自転車部品は堺の代表的な工業製品になっています。

大和川リバーサイドサイクルライン横に建つ堺の自転車オブジェ


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