40 蘭奢待と会合衆

戦国堺の街
蘭奢待レプリカ         正倉院 THE SHOWにて

最初の写真、鳥の死骸のような物は、大阪歴史博物館で開催されている(8月24日まで)「正倉院 THE SHOW」で展示されていた天下の名香と称えられる蘭奢待のレプリカです。この展覧会ではその香り(破片を焚いた香り)を科学的に合成した香りを嗅ぐことができるという珍しい展示をしていました。

大阪歴史博物館 正倉院 THE SHOW

蘭奢待は始めは杏仁の香りと以前テレビでやっていましたが、確かに甘い香りが私の鼻孔を刺激しました。それは軽い白檀の線香の香りにも似て心地よいものでした。

1568年義昭を奉じて上洛した織田信長が堺に矢銭2満貫を要求します。会合衆は、濠を掘り、矢倉を建てて矢銭を拒否しますが、翌年1月後押ししていた三好勢が信長に敗れてしまいす。その年の2月11日の天王寺屋自会記(参照5)に信長からの「上使衆百人斗」を接待した記録が残されています。その接待から5年後の1574年3月24日信長は、堺の豪商10名を京都の相国寺に招いて茶会を催します。今井宗久や津田宗及、千利休など信長に協力しているメンバーを中心に老舗の紅屋宗陽など堺の行政・司法を司っていた会合衆(かいごうしゅう)と思われる10名です。26日宮中に願い出ていた蘭奢待の切り取りを許され、さっそく信長は奈良に向かい、28日奈良の多聞城で蘭奢待を5.5㎝切りとります。そして京都の相国寺に戻った信長はまた茶会を催します。津田宗及はその会記にこう記します。

御会過ぎて蘭奢待一包拝領申し候 中略 宗易(利休)・宗及両人に下され候 中略 この外堺衆には何へも下さられず候

細川氏から三好長慶(参照6)を守り、三好三人衆の要求をのけて松永長秀(参照8)を逃がし、信長の矢銭を拒絶してきたかつての会合衆の姿はそこにはなく、茶会に招かれ、京から奈良を信長について往復する豪商たちは、信長に臣従する行政官になったようです。また、信長も名物の千鳥の香炉を今井宗久・津田宗及・千利休の3人だけに見せたり、蘭奢待を与えるのは2人にしたりと、関係の深さで会合衆の対応を分けています。

15世紀初めから自分たちで税を集め支配権を持つ者に渡していく(地下請け)ことから自治権を得て、貿易や工業で独立自尊の力をつけていった堺も天下第一の名香蘭奢待を切り取ることができる程の権力者が出現するとその支配下に置かれることになってしまいます。後世の人間からすれば自らが治める自由な街にあこがれてしまいますが、街の発掘では独立自尊の戦国期より、秀吉の支配下にあった頃のほうが、茶器などはより多く広い範囲で高価な物が出土するようです。自らが街を守り独立独歩を貫くよりも、より広く稼げる商売ができる自由を堺の会合衆はちゃっかりと選んだのかもしれません。

堺の街の地下から出土した安土桃山時代の志野茶碗 堺市博物館蔵

 

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