戦国期の堺は貿易や商業だけではなく、工業の街でもあったことを繰り返しこのブログで書いてきました。(参照11,18,29,36)しかし、17世紀末にまとめられた左海鑑という地誌を見てみると就業人数が最も多い職業は漁師(左海鑑では猟師と表記)で1285人、漁船が464艘もあったと記録されています。(なお農業従事者数は左海鑑にはなく、1728年の記録には、小作も含めて2890人)当時の堺の人口が63113名とされていますので、約2%の人が漁に出ていたことになります。魚関連では、魚中買で696人もいたと記録されています。あくまでも江戸初期の人数ですが、千利休の商売は「ととや」という魚屋でしたし、室町時代の初めに堺の魚商人が奈良に売り込みにいくのを幕府から禁止されたことがあり、春日大社が幕府に「神前に供える鮮魚に事欠く」と抗議した記録が残っています。また「行く春のさかいの浦のさくら鯛あかぬかたみにけうやひくらん」という歌が鎌倉時代の歌集夫木集に納められていることを見ても、堺の魚が古くから広く賞味されていたことがわかります。

日曜日の朝の出島漁港 出入りする船はなく、時折水面をはねる魚の水音が響く
旧堺港(参照37)から1キロばかり南に行ったところに出島漁港があります。私が訪れた日曜の朝は船の出入りもなく静かな水面に漁船と多くのヨットが係留されていました。令和2年の国勢調査によると堺市在住で漁師として働いている方は40名です。江戸期から比べて30分の1以下になってしまっています。

漁船の船名は「住吉丸」ばかり 奥にはヨットが係留されている

出島漁港を見つめるように建つ魚貝海虫慰霊塔と漁港で取れた魚を出すとれとれ市(土日営業)
係留されている漁船の船名を見ると大半が「住吉丸」と書かれています。海の神筒男三神と神功皇后を祭る住吉大社への信仰が現在も高いことがうかがえます。元々堺は住吉大社の荘園であり、堺の産土神の開口神社は、住吉大社の外宮であったとも言われています。(参照38)

大阪中央環状線の堺市のスタート地点(フェニックス通り)
堺区で最も大きな道路フェニックス通りに架かる橋の親柱には橋の名が住吉大社の宮司さんの手によって書かれています。海の街堺には、今も住吉大社への信仰が生きています。次回は、堺の漁業と住吉大社の強いつながりを示す大魚夜市を取材したいと考えています。


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