10月19日今年の堺まつりも大小路をメインに行われました。ふとん太鼓が揺れ、火縄銃が響き、踊りやストリートダンス、チアーリーディング、鼓笛隊がにぎやかに大小路を行き交い、多くの人がスマホを向けたり、食べ歩きを楽しんでいました。
下は、「堺市史」の作成にもかかわった三浦圭一さんの著書からコピーした12~13世紀ごろの堺の推定図です。前回触れた熊野街道の「堺王子」や「方違神社」も記されています。(まだこの時点では熊野街道は堺の街の中を通っていないと推定されています)

「堺 博多の商人」三浦 圭一著 より
堺の街が長尾街道(奈良県葛城市の長尾神社に向かう)とつながった大小路の南側中心にまず発展していたようです。大小路を中心に発展してきた街なので、祭もこの道で行われるのが妥当なのでしょう。「さかい」という名称も、摂津国と和泉国の国ざかいが大小路だったからと言われています。国ざかいというある意味受領・守護権力の緩衝地帯であり、瀬戸内海に開けた港があるという特性を生かして住民が「自治権」を握り街を発展させてきたのです。現在大小路は南海本線堺駅と南海高野線堺東駅を結んでいますが、堺の拠点駅を大小路の東西の端に置いたと言った方が正確かもしれません。平安期から現在まで大小路は堺の中心であり続けています。大坂夏の陣で堺の街が焼け、街を再建した際には道幅9メートルのメインストリートに整備されました。(現在は両側の歩道も入れて道幅30メートル)

天王寺屋会記右:天王寺屋宗達の直筆(影印本) 左:解説
戦国期の大小路の住人がわかる資料があります。このブログでも幾度か紹介しましたが天王寺屋会記という茶会の日記です。(参照5)信長・秀吉に茶頭としてつかえた天王寺屋宗及と父宗達、息子宗凡によって39年にわたって書かれました。天王寺屋は大小路に店を構えていましたが、桶狭間の戦いから4年後の1564年2月21日朝に大小路の南北の住人を招待しています。会記には宗達が達筆で「助五郎(宗及のこと)町振舞」と書いて招待した町衆二十七人(宗達・宗及を含む)の名を大小路の北側と南側に分けて書いています。この当時「町」は道を挟んだ両側を指していました。この記述から天王寺屋は大小路の北側にあり、了雲、道叱、宗閑といった宗達の兄弟たちの店も並びにあったことがわかります。また解説に油屋や紅屋、銭屋との屋号がふられていて、会合衆を務めるような有数の豪商が軒を並べていたことがわかります。堺の中心で商売をしていた宗達が町の面々に息子を改めて紹介するために茶会を開いたのかも知れません。この「町振舞」の一年半後宗達は亡くなり、天王寺屋は宗及が担い、大小路でより店を発展させていきます。


コメント