今年の大河ドラマは「豊臣兄弟」、それにちなんで今年は堺と豊臣秀吉との関係について書き始めたいと思います。信長との関係は何度も触れてきたが(参照10,26,40)、大坂を本拠地とした秀吉は信長以上に堺とは関係が深いのです。
1582年6月に勃発した本能寺の変、岡山から大急ぎで関西に戻った秀吉は、山崎の戦いで明智光秀を討ち、翌年4月には、織田家筆頭家老の柴田勝家を賤ケ岳で破ります。最高権力者となった秀吉は、信長の石山本願寺攻めで焼け野原だつた上町台地に、9月には巨大な城を建設し始めるのです。
ほとんど毎日、約五万人が工事に従事している。(中略)四十日間の工事で七千軒の家屋が建ち・・・ルイス・フロイス 1583年度日本報告
イエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、上記のように大坂城下のあわただしい工事をローマに報告しています。秀吉は、大坂築城において、京からの遷都、大坂の街を堺までつなげるという壮大な構想を持っていたとフロイスは書いています。大坂に本拠を置いた秀吉は、最初の写真でも紹介しましたが、後に紀州街道(南海本線沿い)と呼ばれた道を通って頻繁に堺に来ていたようです。その途中で休憩してお茶を喫した屋敷が天下茶屋と呼ばれたとの言い伝えもあります。秀吉が体調の悪い時堺に来て潮風呂(参照4)に入って病を癒したとも伝わっています。天下茶屋の碑のすぐ横には、千利休の茶の師匠と言われる武野紹鴎が晩年暮らしたという紹鴎森天満宮があります。

秀吉が潮風呂に入った旭蓮社大阿彌陀経寺
もちろん権力者との付き合いがこのようなハートフルなものばかりであるはずはありません。
堺の彼方、およそ一里半から二里の所に、周りを竹で囲み城のようにした立派な町があり、平野と呼ばれている。(中略)ここにははなはだ裕福な人々が住んでいる。この町に羽柴は使者を遣わし、己の市、大坂の商業と繁栄のため移住することを求めた。 ルイス・フロイス 1584年書簡
秀吉は大坂の街を大きくするために商人を呼び寄せました。平野のように強制的に移住させたものもありました。平野の人々は四天王寺の近くに平野町として住まわせたのです。(後平野町の人々は船場に移住し、平野町は現在の町名に残る)堺の商人の中にも移住した者も多かったようです。こうして大坂は、堺を凌ぐ大きな城下町へと発展していったのです。

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