6 戦国堺をめぐる人々1: 三好長慶

堺をめぐる人々
父の菩提を弔うために創建した南宗寺にある長慶像

堺に深い縁を持つ武将を見ていきたいと思います。最近、信長に先立つ『最初の天下人』と言われるようになり再評価されつつある三好長慶に触れてみようと思います。

長慶は、1522年三好元長の嫡男として阿波の国で生まれました。千利休と同年の生まれですが、若くして亡くなったために直接信長との関係を示す記録は見つかっていません。信長が桶狭間の合戦の前年、将軍足利義輝に謁見した日に、ちょうど長慶も京に来ているので、すれ違ったことくらいはあったかもしれません。

さて、三好長慶の属する三好氏は、徳島県の吉野川上流域を拠点にしていた一族です。長慶の曽祖父の代から畿内に進出し、室町幕府の管領職である細川氏に仕えていました。応仁の乱からそれに続く畿内の動乱に翻弄されながらも、着実に畿内に根をはっていきました。そして、父の元長は、足利義維を将軍(候補)としてサポートし、「堺幕府」と呼ばれる政権の中心人物となったのでした。

本拠地が阿波にある三好氏は、堺に拠点を置き、船で阿波と行き来をしていました。戦国堺の街の北辺に接してその拠点だった海船政所の碑が建てられています。

南海七道駅から南にすぐの場所にある三好氏の基地跡

さて、長慶は、父元長と堺に暮らしていました。この政所の中で暮らしていたのかもしれません。しかし、11歳の時、元長が仕えていた細川春元の裏切りにあい、堺が一向一揆の大群に包囲される事件が起こります。元長は、息子をなんとか阿波に逃がした後、壮絶な自害を遂げます。

開口神社の木陰にひっそりと

三好氏の跡を継いだ長慶は、阿波に逃げ帰った翌年、わずか12歳(かぞえ年)で兵を率いて畿内に進出してきます。父の仇、細川春元に仕えることにして。

その後、長慶の青春時代は、足利将軍家を頂点とした武家や寺社といった畿内の複雑にからんだ既得権者との血みどろの闘いに終始します。そんな中、25歳の時、堺で大軍に包囲されてしまいます。生死の危機に瀕した長慶ですが、堺の市政を担っている会合衆(かいごうしゅう)の斡旋でなんとか父の二の舞は演じずにすみました。その後着実に力をつけ、主の細川春元や将軍足利義輝も京都から追放し、『最初の天下人』になっていくのです。

長慶には弟が三人いました。武将としてしっかりと兄を支えながら、茶人としても先に紹介した天王寺屋会記にも登場してきます。その三人の弟にも先立たれ(一人は長慶が殺害させたと言われています)、一人息子の葬儀もとりおこなった長慶は、43歳で燃え尽きるように拠点とした河内飯盛山城で亡くなります。

大東市にある飯盛山城からは、はるかに摂河泉(摂津・河内・和泉の三国)を見下ろすことができます。12歳から眼下に見る平野で戦に明け暮れた己の生きざまを、そして子どもの頃遊び・学び(長慶が好きだった連歌は堺で学び始めたのではと想像しています)そして後には命を救った堺の街を長慶は、どのように見ていたのでしょうか。

飯盛山城址から堺の方角を望む 2016.10

八尾市真観寺にある長慶と養子(甥)の義継の墓碑 2016.2

 

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