10 戦国堺をめぐる人々3:織田信長

堺をめぐる人々
JR岐阜駅前に立つ黄金の信長像 右手に鉄砲を持つ

信長が初めて堺を訪れたのは26歳(かぞえ年)の時、桶狭間の合戦の1年前です。信長の行状を記した資料に信長公記(信長の家来が書いた記録です)がありますが、そこには京で将軍に謁見する晴れの舞台でもあるので、信長も家来80人もみな、金銀の箔を貼った派手な太刀をさしていたと書かれています。さぞ目立ったおのぼりさんの団体だったことでしょう。

その後堺との関係は、9年後信長35歳の時、足利義昭を奉じて上洛し、堺に2万貫(20億円くらいの価値でしょうか)の矢銭(軍事費)を要求する時になります。信長自身が直接堺に来たわけではないようですが、征服者として翌年家来を多数遣わしています。当時信長に対抗する三好三人衆に肩入れする者が多かった堺への脅しもあったのか、その後すぐに、信長は尼崎を焼打ちしています。堺から、尼崎の街が燃える炎は、海越しにくっきりとよく見えたことでしょう。

それからまた9年後、信長は毛利水軍対策に造らせた大船(鉄板で覆われた鉄甲船だったといわれています)を見るために堺にやってきます。

信長の鉄甲船が浮かんでいた旧堺港

旧暦の9月30日、堺の港に浮かんだ鉄甲船は「のぼり、さし物、幕打ち廻し」と飾り立てられていたと信長公記には書かれています。その結果

堺南北の僧俗男女、此の時、信長公を拝み奉らんと、結構に出立ち候て(衣服を着飾って)、にほひ、焼物(香を焚き込めた)ふんふんとして、衣香当たりを払って、四方に薫じ、群集候ひしなり

という大変な騒ぎになったようです。

この鉄甲船(6艘)は11月6日に大坂の木津川口で、毛利水軍を見事に破ることになります。

信長は、堺に征服者として臨んだだけではありませんでした。鉄砲や火薬・弾丸の大のお得意様でもありました。特に今井宗久は、信長から、領地も与えられ、堺近郊に鍛冶屋等を集め、鉄砲製造や火薬調合の「工業団地」を作ったと言われています。鉄砲の二大産地、堺と国友村を押さえた信長は天下統一に向けて邁進していくのです。

信長は、10台の頃から、師匠について鉄砲を習っていました。そして20歳の時、500挺にものぼる、弓・鉄砲部隊を率いて義父にあたる斎藤道三と、会見に臨んだと言われています。鉄砲が種子島に伝わったのが、1543年だとすれば、わずか10年後のことです。亡き父の跡を継いで2年の間に、流通量も少なかったと思われる鉄砲を買い集めたのでしょうか。そんな信長が、26歳の時堺に来たのは、単に観光であったとは考えられません。きっといくつも鉄砲を扱っている店を回り、海岸で試し撃ちをして、気に入った鉄砲を買いまわっていたように思えるのです。

ザビエル公園の堺鉄砲之碑

ザビエル公園にある鉄砲記念碑

堺で鉄砲を買い回ってから15年後、信長は長篠の戦いで大量の鉄砲を活用して武田勝頼を破ります。堺の鉄砲の生産が飛躍的に伸び、それに伴って火薬や弾丸という輸入に頼る商品の需要も大幅に拡大しました。東洋のベネチアと称された堺の自治を崩壊させたのは信長ですが、後々堺の工業の基盤となる鉄砲産業を繁栄に導いたのもまた信長であつたのです。

 

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