海恋し潮の遠鳴りかぞへつつ
少女(おとめ)となりし父母の家
上の短歌を詠んだのは堺出身の与謝野晶子です。与謝野晶子の実家(和菓子屋)は、大道沿いの甲斐町にありました。埋め立てで海が遠のいた今では望むべきもありませんが、与謝野晶子の少女の頃は堺の中心部で波の音が聞こえていたのです。
環濠に囲まれた堺の街は海抜5メートル前後しかありません。仁徳天皇陵の西側の海岸に海から運ばれてきた砂が堆積していった場所に徐々に人が集まり、市がたち物が集まり、財力を持った有力者が生まれ、彼らが協力して環濠を掘って街の防衛を図ったのです。イエズス会の通辞を務めたロドリゲスは、「この都市がまったく爽やかさのない干からびた海浜の一平原に位置し」(16 茶の湯の心 参照)と日本教会史に記しています。
瀬戸内海・太平洋につながる海に接していることは堺の街に大きな富を生みましたが、大きな災害ももたらしました。1476年8月25日(新暦)海嘯(かいしょう)に襲われたことが奈良興福寺大乗院の門跡の日記に残されています。日記には、暴風雨のことも書かれているのでこの海嘯は、台風による高潮だったのでしょう。民家数千戸、船数百艘が失われ、男女数百人が行方不明になったとあります。時は応仁の乱の最中、京や近郊から安全な堺に多くの人が避難してきて人口も膨らんでいたため余計に被害が大きくなったのでしょう。

強烈な台風が堺の西側を大潮の際に通過すると堺区の半分は3m以上の浸水に襲われると想定されている
その海嘯から120年後、また自然災害が堺を襲います。慶長伏見地震です。堺だけでなく近畿全域に大きな被害をもたらしました。この地震で秀吉のいた伏見城も全壊しています。秀吉の死の2年前のことです。堺にいたイエズス会の宣教師はこの時の惨状を以下のようにローマに報告しています。
九月四日にこの市で非常に恐ろしい地震があり、三時間にわたって震動した。中略 翌朝光が差した時、人々はすべてのまったく狭い露路が(交差している主要な道路を除いて)、家屋や樹木や石や壁があらゆる方向に崩壊していたため、通行できる余地がないほど閉ざされてしまっているのを見た。昼夜を分かたず、男たちの叫び声や女たちの悲嘆の声や子供たちの叫喚を、大地の底や埋没した廃墟の凹みから助けを求めているのを聞くのは哀れを催すにもっとも値した。
15,16世紀、堺を襲った二つの自然災害を紹介しました。この間天災だけでなく、戦や一揆、大火といった人災にも幾度もありました。もちろん戦国期平和と安全をうたわれた堺、他の地域よりも人災は少なかったことは確かですが、我が先人たちは壊滅的な被害を受けても、逞しく幾度も堺の街を再建してきました。(3 戦国堺は土の中 参照)例えば海嘯に襲われた翌年には、堺から遣明船を出航させているのです。街の再建の中出航の手配から費用の負担まで堺の商人が中心となって実現させたのです。
自然災害は今でも繰り返し襲ってきています。南海トラフ地震はいつ起こってもおかしくない状況だといわれています。時代が進み災害対策もされている現在、我々に、先人たちのような不屈の心があれば、きっと大きな災害にも立ち向かっていけるはずです。


コメント