津田宗及は堺の豪商、天王寺屋の屋号で堺の会合衆(かいごうしゅう)として街の指針を決めていた人物です。また茶人として信長・秀吉に仕え、親子三代にわたって茶会の記録を残しました。(参照:5 華麗なる交遊録:天王寺屋会記)今回は、宗及が信長の屋敷を訪ねた記録を紹介したいと思います。

天王寺屋会記 影印本(写真印刷した本)で津田宗及の自筆がわかる
信長が上洛して堺に2万貫の大金を軍資金として要求してから6年後の1574年宗及は岐阜の信長の屋敷を訪ねます。(2万貫は堺が応援していた三好三人衆が信長に敗れ、厳しい追求を受けた末に支払われました)堺から4日かけて岐阜に到着しています。左はその時の天王寺屋会記(茶会の様子を日記形式で書いた物)、「宗及一人」の文字に天下人に選ばれて招待されたのだという宗及の誇らしい気持ちがでているように思います。この茶室や茶道具の紹介(茶室はCGの一番奥の建物にあったと言われています)や、あと出された豪華な食事の数々、お代わりのご飯を信長自身が運んできたことなどが詳しく記されています。しかし残念ながら絢爛豪華だつたという信長の屋敷の様子は書かれていません。せっかくなので、宗及の訪問の5年前にこの屋敷を訪ねたイエズス会の宣教師ルイス・フロイスの描写を紹介しましょう。
宮殿は非常に高いある山の麓にあり、その山頂に彼の主城があります。驚くべき大きさの加工されていない石の壁がそれを取り囲んでいます。第一の内庭には、劇とか公の祝祭を催すための素晴らしい材木でできた劇場ふうの建物があり(中略) 私たちは、広間の第一の廊下から、すべて絵画と塗金した屏風で飾られた約二十の部屋に入るのであり、人の語るところによれば、それらの幾つかは、内部においてはことに、他の金属をなんら混用しない純金で縁取られているとのことです。(中略) 三階は山と同じ高さで、一種の茶室の付いた廊下があります。それは特に精選されたはなはだ静かな場所で、なんら人々の雑音や雑踏を見ることなく、静寂で非常に優雅であります。三、四階の前廊からは全市を展望することができます。 完訳フロイス日本史2 中公文庫
宗及がこの屋敷を訪れたのは、前年長く敵対していた朝倉義景・浅井長政を自死に追いやり、正月にはその宿敵の髑髏を盃にして部下たちと酒を回し飲んだという次の月、信長にとって解放感と達成感に満ちた時期であったのかもしれません。また堺の中心人物をより取り込んでおこうという気持ちもあったのか、我が子まで食事の接待をさせるという厚いおもてなしをしています。なお、現在岐阜市は「信長公のおもてなしが息づく戦国城下町・岐阜」の観光キャッチフレーズを掲げています。

信長の屋敷跡 岐阜城のある金華山山麓で公園になっている
翌月上洛し、奈良に足を伸ばした信長は、東大寺正倉院の宝物蘭奢待を切り取り、その一部を宗及と千宗易に与えています。それから450年、屋敷跡は岐阜公園となり頭上にはロープウエイが通り、山上の城までをつないでいます。宗及の岐阜訪問は堺の信長への傾斜をより強め、自治の街から、天下人への政治依存を強めていくエポックになりました。


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