27 戦国堺をめぐる人々4 三好実休

堺をめぐる人々
阿波から堺へ 三好実休は幾度この海峡を越えたことだろう 加太から紀淡海峡を望む

三好実休は、以前取り上げた三好長慶の実弟です。(12 堺の富はどこへいった 参照)信長の前の天下人といわれる長慶は、最大八か国におよぶ畿内支配地を3人の弟と部下に分割して任せます。実休は三好家の本拠阿波の支配を任された三好家No,2の存在でした。武将・政治家としての彼の働きとともに、記録に残されたのは茶人としてのふるまいです。武野紹鴎の弟子となり、茶に耽溺した実休は、何度も取り上げた「天王寺屋会記」に最も出てくる武家になります。茶会をともにしたのは、津田宗及の父宗達です。宗達の会記には、21回にもおよぶ実休との茶会の記録が残っています。その中には、堺から7日かけて実休の阿波の城へも訪問しています。宗達の方が20歳以上年上ですが、二人の親密な関係は、会記の記述からもうかがえます。

弘治二辰十一月廿一日罷立 同廿八日阿州へ着申候 同日豊州(実休)へ御礼参 而茶屋に暮候まて御物語承候                              天王寺屋会記

三好家の本拠地阿波を支配し、主家である阿波国守護である細川氏之を殺害し、兄長慶の畿内制圧に度々阿波の兵を率いて渡海してきた実休、戦に明け暮れた日々を癒してくれたのが茶であったのかも知れません。

岸和田市の久米田池の近くにある三好実休の戦没碑と実休を射殺したと言われる根来衆往来左京の碑 皮肉にも道を挟んで向かい合っている

今回実休を取り上げたのは、堺に莫大な富をもたらした鉄砲の普及に彼が大きく「貢献」したのではないかと考えたからです。合戦での鉄砲による戦死が初めて記録されたのは1550年三好長慶と細川春元の京都の戦と言われています。それから12年後実休は久米田の戦い(岸和田)で戦死します。一説では鉄砲で射殺されたと言われています。彼が戦死したために、三好方は壊滅的な敗戦を喫します。2か月後、長慶は教興寺の戦いで、畠山勢に復讐を果たしますが、結果的には三好家の没落を止めることができませんでした。

大戦(久米田の戦いでは両軍あわせて2万人以上が激突したといわれています)での大将の討ち死にはセンセーショナルな話題となって全国に伝わったことでしょう。なんといっても戦の総大将(兄の長慶はこの戦には出陣していません)、そして畿内で覇を唱えている三好家のNo,2が射殺されたと噂されたのです。また、大将の射殺に成功した鉄砲傭兵の根来衆の名を大いに高めたことでしょう。(鉄砲で有名な雑賀衆も根来との関係は深い)鉄砲の威力、有効性を満天下に示すことになったのです。鉄砲の大量使用で有名な長篠の戦いのは、実休の戦死から13年後のことです。

茶人としての実休は三日月の壺をはじめとする数々の茶道具の多くを織田信長が手に入れたことで「数寄者」の名を後世に残しました。しかしその道具も本能寺の変で失われてしまったと言われています。

久米田の戦いの戦場に隣接して、久米田池があります。奈良時代に開削されたというこの池は今年の冬も多くの水鳥で賑わっていました。

実休の最後の合戦場の近くにある久米田池 奈良時代和泉国出身の行基が作った

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