29 「黄金の日々」に至るまで 1

戦国堺の街
堺市博物館蔵 南蛮屏風左隻

城山三郎の小説「黄金の日々」(1978年NHK大河ドラマの原作)では堺が信長の軍勢に囲まれた1568年から大坂夏の陣の前に街が焼かれた1615年の47年間が舞台となっています。信長・秀吉・家康という時代の支配者に自由という街の鎧を脱がされていった期間ですが、鉄砲の爆発的な生産・販売とともに、日本最大の貿易港として輝きを放っていました。堺の「黄金の日々」はいつか?色々な答えが想定できますが、今回は「黄金の日々」に至る時期に焦点を当ててみたいと思います。

堺市博物館蔵 南蛮屏風右隻

堺の港が発展したのはいつか?というと考古学的な検証はなかなかできないようです。我々が港に持つイメージ、しっかりした岸壁があり、堤防があるといった建造物は中世の港にはほとんどなく、自然の地形を生かした港がほとんどだったといいます。資料的に堺の港が注目をうけるのが、遣明船の発着の港としてです。兵庫から出発した遣明船が、応仁の乱による混乱から、堺に港を変えることになりました。1486年(応仁の乱勃発から19年後)に遣明船が帰ってきた時の堺の街の様子が、堺にいた禅僧の日記に書かれています。(蔗軒日録 しゃけんにちろく 季弘大叔 きこうだいいしゆく)漢文ですが、文字から想像してみてください。

「南北歓声喧甚云」  南北は、堺の南庄と北庄を表し街全体ということです。歓声が甚(はなは)だ喧(やかま)しいかったのでしょう。「人声如雷喧 入夜燃燭 其光亘天」船の荷物は、翌日寺に運び込まれました。そうすると一層人声は、雷の如く喧しく、夜に入ると松明(燭)を燃やして、其の光は、天を亘(わたる)と明るく照らされた寺の境内で運びこまれた荷物を囲んだ人々の騒ぎが見えてきます。

三艘の遣明船が帰ってきてのこの騒ぎ、遣明船の金をだした商人だけでなく街をあげての大騒動になっているのが見て取れます。この熱さ、物見高さ、当時の堺の街の人々の息吹が感じられます。遣明船の船乗りたちは、荷物が片付くまで船から出ることは許されなかったようですが、堺の街に上陸したら、明の国の様子や航海の話を多くの人にせがまれたことでしょう。こうした光景を見、船乗りたちの冒険談を聞いて育った子どもたちは大きな船に、海の向こうに、大きな夢を描いたのではないでしょうか。

南海堺駅南口ローターリーにある南蛮船像

15世紀から17世紀初めにかけて堺からは商売のため明だけでなく琉球やフィリピン、ベトナム、インドネシア、タイへと多くの人が海を渡り、商売を広げていきます。堺の港に直接南蛮船が来たかどうかはわかりませんが、淡路島の島影をバックに何艘ものガレオン船が係留されていることを勝手に想像することは許されるでしょう。

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