31 「黄金の日々」に至るまで 2 堺を要塞にした男 

大内義弘像 山口県立山口博物館蔵 堺をめぐる人々
大内義弘像 山口県立山口博物館蔵

大内義弘という武将がいました。14世紀後半、今の山口県を中心とする守護大名の嫡子として生まれ、足利三代将軍義満に従い、大内家を大いに発展に導きながら、最後は反乱を起こしなくなった悲劇の武将です。

足利義満は、わずか10歳で将軍となりますが成長するにともない、有力な守護大名同士をわざと対立させたり、一族間の分裂を図ったり、「言いがかり」ともいうべきやり方で有力者を反乱に追い込みそれを弾圧するといった手法で将軍の権力を強化し、独裁者への道を歩んでいきます。義満の2歳年上の大内義弘は、九州や畿内の戦いで大きな手柄をたて、また南北朝の合一にも活躍し懸命に義満を支えてきたと言われています。その功績から従来の周防・長門・石見・筑前に合わせ紀伊・和泉の守護職を与えられるのです。6か国の太守となり、戦上手で剛直な性格でもあった義弘は、将軍義満にとって従順で有能な手駒から邪魔で厄介な有力者になっていったのです。

1399年(応永6年)10月義弘は、山口や九州の兵を兵船三百余艘に乗せ堺に上陸します。義弘は、義満に対抗するため鎌倉公方(足利満兼 義満の従甥)や義満に不満を持つ全国の守護たちと連絡を取り合っていました。義満が遣わした僧に義弘は素直に上洛しない理由を三つあげています。

  • 義満がひそかに自分を討とうとしていること
  • 和泉・紀伊両国を取り上げようとしていること
  • 九州の戦で戦死した弟に恩賞の沙汰がないこと

義弘は、義満との戦に向けて軍議を開きます。京へ攻め上る案や、河内の山に陣取る案がでる中、堺の代官を務めていたと思われる部下が、堺の民は大内に心を寄せているし、兵糧・木材も富んでいるからこれを利用して城郭を築き籠城する案を出します。義弘はこの案を採用します。

材木を集め、数百人の番匠(大工)を以て (中略) 勢楼(敵陣偵察のためのやぐら)四十八、箭櫓(上から矢を射る矢倉)一千七百 東西南北合わせて十六丈(1700mくらいか)        応永記

上のことから、14世紀末には既に堺は、材木の集積地になっていて、大工もたくさんいたことがわかります。当時の街の範囲はわかりませんが、東側は、(堺東駅付近?)は深田だったという記述もあるので、街の北と南を中心に柵を設け、1700もの矢倉をくみ上げた堂々とした要塞都市にしたのです。そこに5000人の兵がこもったと言われています。当時城と言えば、山や川などの地形を利用した軍事施設で、中国やヨーロッパのような街全体を防衛するような物はありませんでした。朝鮮との貿易でおおいに儲けていたという義弘は、こうした海外の情報も参考にしたのかもしれません。

堺 本行寺にある大内義弘供養塔

11月29日ついに幕府軍が堺城に攻めかかりますが、守りが固く攻めきれず、また海上の戦いでも大内水軍が幕府軍を圧倒します。

12月21日準備を整えた幕府軍は、風の強い日を選び火攻めを決行します。多くの材木で組み立てられた井楼、矢倉に火が移り、炎の中で義弘は「今はこの世に思い置く事なしとて死に狂いと云うもの。大勢の中へ破りて入る。向敵七八人切り落とし」と奮戦したと伝えられますが、力尽き討ち死にします。数え年45歳でした。

この応永の乱で、堺は「四方の矢櫓勢楼より火移りて堺一万間一宇も残さず同時に焼ければ」という壊滅状態になってしまいます。大内氏は、本拠の山口は義弘の弟が継ぎますが、和泉国は細川氏に守護は代わります。堺は、新しい守護と結び、再び不死鳥のように蘇っていくのです。

大内義弘の菩提を弔うために建てられた瑠璃光寺五重塔(山口市 国宝)

コメント

タイトルとURLをコピーしました